どうもこじらです。
「何か今の日本ってすごい生きづらいなぁ……」って思ったことはありませんか?今回は裕福で便利なはずの日本の現代社会が、実は今までの時代で一番辛いんじゃないか?という話をしていきたいと思います。
あ、当然私は現代社会でしか生きたことがないエアプなので悪しからず。
現代社会の強み
まずは、現代は何が便利なのかを軽く書いていきます。
情報インフラ
現代では、情報のインフラがどちゃくそ整備されていています。
- 知りたい情報がすぐ手に入る。
- 人と簡単にコミュニケーションが取れる
- 自分の意見をたくさんの人に発信出来る
など、メリットを上げたらキリがないと思います。
人権が守られている
日本では人間が人間らしく生きる権利というものを生まれながらにして持っていますね。信じるものは自由、発言も自由、どんな仕事に就くかも自由、結婚相手も自由です。
食べ物がたくさんある
日本で普通に生きようと思えば、食べ物に困ることはありません。飢えて倒れている人なんか見たことないですもんね。
これだけ恵まれているのに一番辛い?
とまぁこんな感じで、現代社会の強みを見てみると、
「昔より便利になってるし、生活もある程度保証されているのに、現代社会が一番辛いってのは流石に被害者面しすぎじゃない?」と思われるかもしれません。
はい、じゃあ今度は本題である現代の生きづらい部分の話です。
現代社会の生きづらい部分
情報の量について
「整備された情報インフラは必ずしもプラスに働くわけではない」というお話です。
情報を捌くのが大変すぎる
私たちはライン、ツイッター、インスタ、2ちゃんのまとめ、テレビ、Youtube、ニュースアプリ、友達との会話、仕事のメール、ふと気になって検索した内容、電車の中吊り広告など、たくさんの媒体からたくさんの情報を得ています。
インターネットが普及する前の人が受けていた情報量の何倍になるんですかね?テレビと新聞が主な情報源だった時代を考えるとここ10年近くの変化は本当に異常だと思います。
情報には依存性がある
「何で自分、こんなにスマホばっかりいじってるんだろう?」と思うことってないですか?歩きスマホは当然だし、家帰ったらとりあえず寝っ転がってスマホみたいな。
私の場合、常に何か情報を得ていないと時間を無駄にしている感覚に陥ります。もっと面白い情報が欲しい、もっと有益な情報が欲しいと思い、本来必要のない知識まで蓄積させようとしています。これって完全に情報に依存していますよね。
まぁ、スマホを介した「人とのコミュニケーション」に依存している場合もあるので、依存の対象は人それぞれですけどね。
知らない方がいいことはたくさんある
知りたい情報をすぐ得られる世の中ですが、知らない方がいいことはたくさんあります。というか、私は知らない方がいいことの方が多いと思っています。
才能の壁を感じやすい
今までは誰からも注目されないような「オタク」たちが今の時代ではたくさん見ることができます。
例として、あなたが「自分はコインを積み重ねるのだけは誰にも負けない!てかこんなことやっている人絶対他にいないし!w」と思っていたとします。
これまでの時代であれは、そういった人が世間に露出するような機会は稀で、似た存在を知る機会は少ないです。
しかし、今の時代はネットで少し調べればいくらでも前例が出てきます。母数が多いので、「もっとすごいコイン積みをする人」が発掘される確率も上がります。それを見てしまうと、「あぁ、自分って別にたいしたことなかったんだね…一人で舞い上がってたわ……」と思ってしまうかもしれません。
まぁちょっとネガティブすぎる気もするけどw
生きる時代がもう少し前なら、こんな劣等感は感じずに気持ちよく生きて気持ち良く死ぬことができたのかもしれません。「自分はすごい。けど周りに比べたら大したことない…」というような、この「けど~」が付かないだけでどれだけ豊かな気持ちで生きることができるんでしょうか。辛いもんだ。
橋本環奈
自分だけでなく、周りに対する理想にも大きく影響を与えます。だって、小さい村で一生を終えたら、近所にいるブスが世界で一番かわいいと思ったまま死んでいくことができるんですよ。
でも、現代の人たちは橋本環奈という存在を知ってしまったせいで、時代が違えば超絶可愛い近所の女の子が、ただのブスだと分かってしまうんです。(橋本環奈が最近太りすぎててアレとかいう話は置いておいて。)
というように、比較対象としての基準が高くなってしまうため、より不幸に感じることが多くなると思います。
過ちにカウントされることが多すぎる
現代社会では過ちにカウントされるようなことが多すぎると思います。過ちというか失敗?失敗というかミス?この辺のうまい日本語がないですね。
まぁ、ここでは過ちっていう言葉を使います。
そもそもなぜ過ちを犯すのか
そもそもなぜ人は過ちを犯すんでしょうか。これは過ちとして認められるような何かしらのルールが存在するからです。
法律というルールがなければ、万引きをしたところでそれは別に悪いことではないし、過ちにはカウントされませんから。
ただ、子どもの頃から「万引きは悪いこと。犯罪である。」と教え込まれているから、「やってはいけない。」と思い込んでいるんです。
現代は過ちがバレやすい
現代ではみんながスマホを持っているため、写真や動画という証拠が残りやすく、個人の情報発信が容易なので、なにかしらの過ちを犯してしまった場合の代償がとてもでかいです。
たしかに、自分が誰かの過ちによって迷惑を被る側であれば、これはメリットに成り得ます。しかし、自分が過ちを犯す側になることを考えると最悪の状況ですし、過ちを犯してしまうのではないかという不安感も人の精神をすり減らします。
満員電車での痴漢の冤罪なんてのはすごくいい例ですね。「自分はただ電車に乗っているだけなのに、痴漢に疑われてしまうのではないか?という不安感」を男性であれば誰もが感じると思います。
過ちを確信的に起こす人はごく少数
過ちを悪意があって起こすような人はごく少数だと思います。
- 特に考えてなかった
- 悪いことだと思わなかった
- 実際はやってないけど、それを証明できない
ということがほとんどだと思います。
常に至る所に注意を張り巡らせ、何が過ちになるのかを考えつつ、どうしたら被害にあいにくいかを考え続けたとしても、他の人がその人の勝手なルールで「過ち」と認め、なぜかみんながそれに賛同してしまったら「過ち」になってしまう訳です。
そもそも人間は慣れによって考えることをやめてしまうので、注意を張り巡らせ続けるというのは不可能です。
つまり、人間はいくら努力をしてもいずれ過ちを犯します。
現代は色々と自由
選択肢が多いことはいいこと?
現代では職業も結婚相手も住む地域も自由に選ぶことができます。
昔の人と比較すると「昔の人はそれらを選ぶ権利がなかった、かわいそう」と思うかもしれませんけど、実際のところどっちが幸せなんですかね?
自由を有効活用できる人はごく僅か
現代は色々と自由です。これまでの人類の歴史を見たら現代がどれだけ恵まれているのかというのはよく分かります。しかし、その自由を有効的に使える人間は一握りだと思います。不安を感じやすい国民性の日本人では自由を持て余してしまいます。
子どもの頃、将来の夢を聞かれて困った経験はないですか?将来の夢を即答できるような人は少数派です。
ほとんどの人は毎日をなんとなく生きていて、なんとなく「幸せになりたいなぁ」、「なんか楽しいことないかなぁ」と思いながら生きています。それは子どもの頃からそうですし、大人になっても同じだと思います。「無難な人生を歩みたい、でも何かきっかけがあって良い方向に転んでくれたらいいな」と漠然と考えているものですよね。
明確な目標をもってそれに突き進むのはどうしてもリスクが伴います。不安を感じやすい国民性である日本人は、リスクを嫌い、安定志向の考え方を優先させることが多いと思います。
結果、自由を与えられていてもそれを有効活用できず、多少縛られていてもリスクが低そうな方を選択する訳です。
てか、最近だと明確な目標を持ってそれに向かって頑張れるような性格の人でも、ネットがすぐ現実を突きつけてきますし、今の若い子ってすごくかわいそうw
強制された方が楽なことは案外多い
自由というのは一概に良いものではなく、強制された方が気持ちが楽なこともたくさんあると思います。
なぜなら、自発的に行動した場合には、自分の行動に対する責任が常に付きまとうからです。
- 自分がした選択のせいでこんなことをしてしまった…
- 自分の選択なのにこの程度の結果しか出せなかった…
と後悔した場合、向き先が自分になります。その点、強制された場合は、
- うまくいったら「自分がすごい」
- 失敗したら「強制した相手が悪い」
というような都合の良い考え方ができます。
この辺については類似する記事があるので、良かったらどうぞ。⇒自由と依存について
命の保証がされていることって本当に幸せ?
命の保証がされていることって幸せに直結するのでしょうか。たしかに、生と死の瀬戸際で生き続けるんだったら、安定して食べ物がある環境で生活したほうが幸せだと思います。ただ、人間は欲深い生き物で、最低限の生活が保証されたらそれより高次元の欲求が芽生え、高次元のことで悩ませられるんです。
マズローの欲求5段階説
と、ここでちょっと心理学の話をさせてもらいます。本来このブログは「人の考えを使って語るのは考えていない証拠である」というスタンスでやっているんですけど、このマズローの欲求5段階説という考え方はすごく画期的で分かりやすいので引用させてもらいます。
これ知っている人って多いんですかね?人間の欲求には段階があり、低次元の欲求が満たされると次の次元の欲求に、その欲求が満たされるとさらに高次元の欲求にと昇華していく構造になっているという説です。
- 自己実現欲求…ワイの可能性はこんなもんではないんや!!
- 承認欲求…ワイはすごい人なんやで。認めてくれや。
- 社会的欲求…友達欲しい。彼女欲しい。
- 安全欲求…足立区は怖い。あんなところには住みたくない。
- 生理的欲求…あーおなかすいた。あーうんこしたい。
内容はこんな感じです。ちゃんと知りたい人はググってw
まぁ常にうんこしたくてたまらない人間が、人から認められたいとは思わないとかそんな感じに思っておいてください。(適当)
日本人の欲求段階について
日本は裕福な国なので、まともな生き方をしていればそれなりの生活を送ることができます。マズローの欲求5段階説に当てはめると、安全欲求、生理的欲求でひどく悩まされる人はほとんどいなくて、みんなが社会的欲求以上の高次元な悩みで悩んでいます。
そのため、そもそも食べるものに困っていた時代と比較して「今は食べ物に困る時代ではないんだから、幸せに決まってるだろ?」という指摘は現代人には納得できません。だって、辛くて悩んでいる内容がもっと高次元にあるんですから。
生きていることは幸せ?
「生きていることは幸せである」という風潮ってありませんか?
ニュースで「重体3人、軽傷10人」って見て「あー死者出なかったんだ。良かったねー。」って思ったらその時点でこの風潮に流されていると思っていいと思います。
重体になった3人はもしかしたら生きるより辛い思いをしていて、これからもその辛さが続くかもしれませんよね。
- 手足が動かなくなったが治る見込みはない。
- 意識ははっきりしているのに言葉が上手く話せない。
- 全身に痛みが走っているが身体も口も動かない。
というような、いつまで続くか分からない苦しみを感じたとき、「生きててよかった」なんて思える訳がないです。終わるのか分からない途方もない苦しみというのは計り知れない辛さがあります。「5億年ボタン」とか、ループものの映画なんかはまさにこれを題材にしてますね。
現代社会のストレスに対する軽視
現代の急激な変化に人は順応できていないと思います。
SNSは自分の承認欲求を暴走させ、ディスプレイのブルーライトは目を傷つけ、たくさんの情報が脳を疲弊させます。しかも、結婚相手が見つからないのも仕事が上手くいかないのも全てが自分のせいと言われるような世の中です。
あらゆるストレスを抱えて毎日辛い思いをしているのに、「現代はすごい豊かだよね。」「アフリカの子供たちに比べたら全然大したことないよ。」「精神的なストレスとか言ってさ、甘えてんじゃないよ。」「頑張るのは当たり前。みんな頑張ってるんだよ。」と、なぜか現代特有の高次元の辛さは軽視されがちで、本当に自分が弱くて低スペックな人間なんじゃないかと思いこみやすいです。
たしかに、目に見えるようなストレスがかかっている訳じゃないので実際は分からないですよね。飢えて痩せこけてる訳じゃないんだし。
でも、実際のストレスを測ることはできないのが難しいところですね。この辺をうまく測れる仕組みがあれば現代でのストレスは大分軽減できると思うんだけどなぁ。
まとめ
今回は現代社会の生きづらい部分、現代社会のストレス等について書いてみました。
ここでは、理由や概要などをざっくりと書きましたが、その状況に対する考察や解決方法などは別の記事で書いていこうと思います。というと聞こえはいいですけど、実際はこの記事を書く上でボツになった文章をまとめた記事ですw内容が深入りしすぎていて読むのしんどいと思ったのでw
あ、千と千尋の神隠しを題材にした記事も書く予定です。あれはこの記事と通ずる部分が多いので。
まぁ今回はこんな感じで。
こじらでした
じゃ
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