本質的な「やさしさ」とは?~優しい人を見極める方法~

現代哲学

どうもこじらです。

「やさしさ」とは何でしょうか。

今回は「本質的なやさしさ」というものについて考えていきたいと思います。

都合が良い人は優しい?

まずは、「都合が良い人」について考えていきます。

世の中には、自分にとって都合が良いことをしてくれた人に対して、

  • 「この人こんなプレゼントをしてくれた!やさしい!」
  • 「この人こんなところにまで気配りができるんだ!やさしい!」

と思い、

都合の良い人=やさしい人だと思っている人が多くいると思います。

 

その自分に都合の良いことをしてくれる人って本当にやさしい人ですか?

まずはここに疑問を持って欲しいです。

 

人間は基本的に損得を考えて自分になにかしらのメリットがある場合に行動をします。

プレゼントをしてくれた理由、気配りをしている理由を考えたらほどんどの場合、その人の自己満足や下心に行き着くはずです。

 

自己満足や下心で行動している人にたいして「やさしい!」って思う人はいないですよね。

 

まぁたしかに、人間離れした「やさしさ」を持っていて自己満足や下心がなく、周りに尽くすことができる人がいたら、それは「やさしさ」なのかもしれません。

しかし、そんな聖人のような人間はほとんどいません。

 

人に対して自分をないがしろにしてまで尽くて、しかも裏に理由が特にない。

なんだそれ神か?

 

とりあえず、このことから都合が良い人は(基本的に)やさしい人ではないということが分かります。

「やさしさ」はめっちゃ主観的

結局のところやさしさっていうのは主観的でその人がどう捉えたかで変わってきます

「この人は多分下心があってこういう振る舞い方をしているんだな」と下心が見えたとしても、その振る舞いが下心に見合うレベルじゃない人道的なものだったとしたら、それはやさしいと言えると思います。

 

まぁそれでも、もっと何か裏があるんじゃないか?と探り出してしまうものですし、やさしくされる側としては結構気持ち悪いものだったりするんですけどねw

 

「やさしい!」になるか、「下心があってキモい!」になるかの境界線は人それぞれです。

経験や環境に大きく左右されます。

 

つまり、やさしさの基準や考え方は人によって違うので、「やさしさ」に答えは存在しません。絶対に。

「やさしさ」はどれだけ客観的に見れるか

私は「やさしさ」というのは、物事に対してどれだけ客観的に見ることができるかだと思っています。

 

主観で物事を考え、感情で意見を切り替える人はどうしても人に迷惑をかけますよね。

相手の気持ちを考えられず、自分の世界だけで物事を完結させ結論を作ろうとします。

 

例としては、自立したい娘を引き止める父親とかでしょうか。

娘が上京したいと言っているのに、娘に離れて欲しくないというだけで引き止めるような父親です。

まぁ、その父親が都会にものすごくネガティブなイメージを持っていて、娘が不幸になるという確信があるとしたらそれはまた話が変わってきますがw

 

親が子供の自立を拒むときは、やさしさを盾にしていて、内心はただ寂しいだけというのがほとんどだと思います。

それのせいで娘の可能性が狭まってしまったら、それは「やさしさ」には成り得ません。

 

そのため、自分の感情や主観をなるべく押し殺し、客観的な視点から考えられる人間こそがやさしい人間であり、それが「やさしさ」だと私は思っています。

マイナスにさせない「やさしさ」

やさしさには、

  • 「相手に対してプラスになることをしてあげるやさしさ」
  • 「相手に対してマイナスを与えないやさしさ」

があると思います。

 

前述の例で見ると、

  • 前者→プレゼントや気配り
  • 後者→自分の感情を押し殺して娘を自立してあげた

というのが当てはまります。

 

前者の「相手に対してプラスになることをしてあげるやさしさ」は「こうすれば相手は喜ぶ!」と勝手に決めつけている可能性があり、そこに下心がある場合もあるので、「やさしさ」に成り得るかは微妙です。

しかし、後者の「相手に対してマイナスを与えないやさしさ」に関しては、自分自身が感情を押し殺しているので、自身にメリットがない場合が多く、下心が感じられることは少ないと思います。

 

この「相手に対してマイナスを与えないやさしさ」が本質的な「やさしさ」であり、これを客観的に考えつつ遂行できる人間こそがやさしい人間だと私は思います。

やさしい人は人と極力関わりを持たない

世間一般的にいう「コミュ障」という性格の人は、「相手に何もしないほうが、相手が幸せになる可能性が高い。自分がこんなことをしてしまったら相手の幸せが減退してしまうのではないだろうか?」と考える人が多いです。

そう考えるが故に、うまく話せなかったり、積極的にコミュニケーションが取れなかったりする訳です。

 

これは「相手に対してマイナスを与えないやさしさ」に当てはまりますよね。

そのため「コミュ障」は私の視点から見ても優しい人間に該当します。

 

このような相手を思いやる思考の度が過ぎてしまうと、精神的に病んだり、社会に対して閉鎖的になったりしてしまうのだと私は思います。

そして、彼らに対して否定的な立場をとる人が多いのもまた事実です。

優しい人間ほど生きづらく、人に迷惑をかける人ほど生きやすい。世の中って、なんかそんな感じの構造になってますよね。

 

親切な人はモテるがやさしい人はモテない

親切な人はモテます。いや、モテるらしいです。モテるための第一条件が親切であることらしいです。

たしかに、多少下心を感じたとしても気配りができる人間は有能に見えるので魅力的に感じますよね。

 

逆に、やさしい人に関してはモテるための条件にはなりにくいんじゃないかと思います。

やさしい人はキョドりやすい

やさしい人は人に対して不快な気持ちを与えたくないという心理が働くので、そっちの方向に脳を働かせます。

で、判断に迷います。そしてキョドります。

 

うん、キョドったらやさしくてもモテませんね・・

 

「人と接するのに慣れていないだけだろw」という声が来そうですが、慣れってのは怖いものですよ。

考えることを放棄させていく工程が「慣れ」ですからね。人と会うことで考えが豊かになり、客観的に考えるためのネタが増えるという考え方もできるかもしれませんけど、自分の中で勝手に「相手はこう考えている」と決めつけてしまい、相手の目線に立つことができなくなる可能性が高くなります。

 

やっぱり思考が疎かになるっていうのは怖いです。アイヒマン的怖さ。

まとめ

なんか雑多になってきたのでこの辺でまとめます。

やさしさの定義を明らかにすることはできませんが、私は「やさしさ」は自分を極力押し殺し、どうすれば相手のためになるかを客観的な視点から見て考えることだと思っています。

 

気配りは自分のためになることが多く、裏を読もうとしない人からしたらただ純粋に「やさしい人」に映ると思います。

しかし、それを一概に「やさしさ」とすることはできません。

 

そして、本質的にやさしい人は、相手と自分の考えや価値観が違うことを認識できるので、自身が親切だと思っている行動を自分から積極的に行うことはできません。

 

「人にやさしくすること」は基本的には自分のプラスにはならないと思います。

デメリットがメリットを上回ることがほとんどです。

自分に厳しく、周りにはやさしく接するというのはとても良いことですが、その生き方は辛いです。

客観的に考えて生きるより、主観的に生きたほうが絶対に楽なんですから。

とまぁ、そんな感じで。

 

こじらでした

じゃ

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