どうもこじらです。
みなさんは論理と感情について考えたことはありますか?多分心理学では感情論理と言われているものだと思うんですけど、これを勉強したことはないので、ちょっと分かりません。活字を読むのが苦手でして。
まぁ私なりの解釈をここにまとめていこうかなと思います。
論理、感情の定義
まずはここで扱う論理、感情の定義を明らかにしたいと思います。
論理…物事の因果関係を繋げて結論に導くもの
感情…自分自身が抱いた感情
ここでのポイントは感情が「自分自身の感情」を指すということですね。ここを履き違えると的外れな議論になってしまいます。
まぁ感情というだけで自分の感情だと言うのは無理があるので、自分の感情とはっきり書きますけどねw
感情から組み立てられる論理
論理というのは基本的に感情から始まります。
「この人なんか嫌だなぁ。でもただ嫌っていうだけじゃ説得力がないなぁ。じゃあ論理的に説明するか!」
みたいな感じで、何かしらの欲求を満たすために論理が展開されるものです。
そのため、人間が考える論理である限り、感情を満たすという目的が一切含まれないということはありません。
例え、他の人の論理を引用して語る際であっても、他の人が考えたことに何かしらの共感を得たから、その論理を展開するものです。
感情から組み立てられる論理はキモい
しかし、感情から組み立てられた論理は気持ち悪いです。
ここが一番のポイントです。
「うるせえな!はっきり言えよ!」ってなるんですよね。
例えば異性をデートに誘う場面を想像してみましょう。
直接「デートしてください。」と言うのではなく、デートをすることのメリットを語ったり、自分のデートプランがどれだけ優れているかを説いたりする感じです。
うん、誘われた側はドン引きですね。
めっちゃキモいです。
でも感情から組み立てられた論理っていうのはそういうことなんですよ。
周りの要素をなるべく取り入れる
自分の感情が少しでも入っている論理をどうしたら気持ち悪くなく、正論に持っていくことができるか。
それは、自分以外の客観的な要素を取り込めばいいと思います。
上の例が気持ち悪かった理由
上のデートに誘う例が気持ち悪いと感じられる理由は2つあります。
- 相手が論理的なデートの誘い方をされたときにどう思うかを考えていなかったから
- 「デートに誘いたいけど、正直に言うのが恥ずかしい」という自分の感情を隠そうとしながら話していたから
です。
自分の感情を隠しつつ感情を押し通そうとしていて、相手の気持ちは考えていない。だから気持ち悪いんですよね。
ここで注目して欲しいのは相手の感情を論理に含めているところですね。
最初の定義のところで「ここで議論される感情は自分の感情だ」と言ったのは、周りの感情は外的要素として論理に含める必要があるからです。
そこを履き違えてしまうと、論理と感情を考えたときに意味の分からない理論を展開することになってしまいます。
要素を取り込んだ結果結論が違う場所に向かう場合
感情を訴えるために論理を組み立てた結果、自分が思っていた着地点とは違うところに行き着くこともあります。
そうすると自分の考えや感情が良くないものだったことに気付かされます。
「自分はこうしたいけど周りに迷惑をかけてしまうな」とか、
「感情で動いていたら結果的に失敗していたかもしれない」というように、
結果的に不利益をこうむることを予見することができます。
この辺が論理的に考えることのメリットだと思います。
正論を感情的に語るのはセーフ?
外的要素を漏れることなく取り入れて、正論と言える状態にまで論理を組み立てたが、その論理を話している段階で感情的になってしまった。
という状況も少し考えてみました。
これに関してはあんまり気持ち悪くないなと思いました。
結局正しいことを熱弁しているだけですし、自分の感情を前面に押し出している訳ではないからですかね。
という感じで、正しい論理からくる感情に関しては、論理から外れない範囲ではセーフかなと思いました。
まとめ
結論としては、
- 論理を展開する前に、感情があること自体は避けられようがないことであるが、それを土台にして論理を組み立ててはいけない
- ある程度論理の方向性を感情で定めてから、外的要素で論理を組み立て、もし、当初の向かいたいところから離れてしまっても、外的要素から組み立てられた論理を優先しよう
といった感じです。
論理というのは「自分の感情を隠すため」に使うことができますが、「自分を良い方向に導くため」にも使うことができます。
前者は間違った使い方だと思いますが、後者は客観性を保つことができるので、とても良い使い方だと思います。
こじらでした
じゃ
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