生き物の命について~ペットと家畜の違い~

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どうもこじらです。

今回もゲームブログで書いた記事の続編という感じの記事です。てかwゲームブログで動物の命の話するなよって感じですよねwまぁ始めていきます。

生き物の命について

「生き物の命についての議論」はある意味タブー視されている部分があります。議題に向き合っているつもりで、実は向き合っていないようなことが多いと私は思っています。

この記事では猫や犬など当然に守られている生き物だけでなく、家畜として飼われている動物の命も同等に扱い、考えていきます。よかったら私の前の記事も合わせて読んでみてくださいね。ただ、内容がまとまっておらず、何が言いたいのかよく分かりませんwwこの記事のおまけとして目を通すくらいの価値ならあるかなと思います。

過去記事のリンクはこちら

では本題に入っていきます。

ペットと家畜の違いとは

ペットと家畜の違いはなんでしょう。まずは、ペットとして認識される動物と、家畜として認識される動物の違いについて考えていきます。

動物への認識について

最近では虫や爬虫類のような、人によっては嫌悪の対象でしかない動物をペットにする人が増えていますよね。他人から見たらペットに成り得ない動物であっても、自分という個人がその動物を可愛いと思ったら、それはペットに成り得る動物種であって、守るべきだと思う動物種になるかと思います。

その点、家畜はどうでしょう。実際に触れ合ってみれば可愛いと感じる人も多いでしょうが、そもそも触れ合うような機会がないですよね。豚を触る機会があったとしても、家畜の豚と触れ合う機会はそうそうないと思います。

このように、自分の身近にいる動物でないと「可愛い」「守りたい」と思うことは少なく、触れ合う機会が少ない家畜の命は粗末にされがちです。

それに、家畜に感情移入したら、食べるために殺していることを自覚してしまい、その責任感が重くのしかかってしまいます。そのことを暗に認識していて、わざと近づかないよう壁を作っている節かあると私は思っています。

これらから分かること

見方を少し変えてみると、「その動物を1個体として見ているか、1種類として見ているかでその動物に対する認識の仕方が変わる」と言い換えられると思います。

1匹1匹に目を向けて感情移入するとしたら、もし家畜として認識していた動物であっても、「殺すのはかわいそう」と感じ、守るべき動物だと認識し始めると思います。それって、ペットとして認識している動物種と同じような扱いになってると思いませんか?

まぁでも、みんなおいしいものを食べたいし、殺す罪悪感から目を背けたくて、感情移入してしまうような場面に遭遇しないよう、なるべく壁を作って生きているわけです。

結局、人間は自分に都合のいいように考え、都合の悪いことは自分の前から排除しようとします。意識的であれ、無意識的であれ、みんなそうしています。

過度な動物愛護

動物愛護という考え方は、色んな動物に対して適用されています。ただ、ほぼ適用されていないに等しい動物種もいる訳ですが。まぁそれは置いておいて。

人間はそれぞれの勝手なエゴで、勝手に「可愛い」と思い、勝手に動物の命を守っています。それだけならまだいいですが、その動物が置かれている環境や状況を度外視して、過度に守ろうとすることもあります。

生態系ってのは面白いもので、オオカミを減らしたからって被食者の鹿が増える訳じゃないし、ワニを殺したからってその川の魚が増える訳じゃないらしいです。

むしろ、減ることもあるらしいですよ。理由は感染症のリスクが高まるかららしいです。捕食者は病弱だったり、怪我をしていたりする比較的捕まえやすい動物を捕食します。それによって、病気にかかりやすい個体が淘汰され、病気にかかりにくい個体が生き残ります。

一部の動物を守って、一部の動物をぞんざいに扱った結果がこれです。非常に滑稽ですね。

ペットと家畜のまとめ

ペットを1個体と見て可愛がるのは、もちろん悪いことではありません。しかし、その動物の種類まで守るべき存在だと認識するのは間違っています。「自分が飼っている犬は可愛いけど、他の犬はどうでもいい」くらいに分けて考えるのがいいと思います。もちろん、上で述べたことを理解した上でです。

人間は生き物を殺さないと生きていくことができません。その現実が変わることはありません。ただ、最低でも一部の種だけを痛めつけ続けることが当然だとは思わないで欲しいです。「殺してもいい種」と「殺してはいけない種」というような、大局だけを見て線引きを行うこともしないで欲しいです。

 

と、この辺りまでが、あの記事で言いたいことなのかなと思いますwここからはもう少し踏み込んで、動物の命への考え方を人間目線から話していきます。

動物の命の考え方

ここまでくれば、「動物を殺すのはかわいそう…でも殺さないといけないんだよな…」という考えになってくれていると思います。いや、なっていて欲しい(願望)。

そこで、動物の命をどういう視点で考えれば平等に扱うことができるのか、という基準を2つ紹介したいと思います。

命の数

命の数を基準にして命を考えます。大きくても小さくても1つは1つです。

苦しみ

その動物の知能レベルを考え、どれくらいその動物が苦しむかを基準にして考えます。基本的には、大きい動物の方が知能が高いとされる動物が多いので、大きい動物の方を大切に扱うことが多いです。あとは知性的かどうかですかね。

お気づきかもしれませんが、この「苦しみによる基準」はすごく偏っていて視野が狭くなりやすいです。詳しくは次の項で。

日本における古来の考え方

日本の文化について、私はよく知らないですが、日本の文化における考え方的には、この2つで言うと「命の数」基準で命を考えるらしいです。そのため、クジラの命もシラスの命も同じ「命」です。

じゃあ、「クジラの命を奪ったほうが苦しめる動物は少なくて済むからそっちの方が動物に配慮してるよね」っていう発想です。それで日本人は昔からよくクジラを食べていたんですね。まぁ、知らんけど。

でも私はどちらかというと苦しみ基準の考え方で考えます。ただ、これは勝手な想像とエゴでしかないです。当然、私はシラスではないですし、シラスとして殺された経験がある訳でもありませんwwでも、考え方としてはなんとなく理解はできますよね。むしろ、クジラとシラスの命が同じと言われる方がピンとこないと思います。

まぁなんか、日本文化はよくできていて、その辺の勝手なエゴや身勝手な考え方も排除して、すべてを平等と考えられるとてもいい文化なのかもしれません。でも私はそんなできた人間ではないので、エゴで勝手に基準を作っていいます。

なんか、自分と日本文化比較してるの笑えますね。

全体のまとめ

全体のまとめとして締めくくりたいと思います。

人はエゴで動物を虐殺し、エゴで動物を守ろうとします。ただ、それを止めることはできません。人は生きていく上で動物を殺さなければいけませんし、仮にペットのような守られている存在を否定したところで何かが変わる訳でもありません。

それでも、人は動物を種としてだけで区別するような愚かな考え方をしてしまっていることに気付き、認識し考える責任があると私は思います。例え、その行為が何の意味も持たないものだったとしても。

 

 

とまぁそんな感じで。今回は昔の自分をフォローする形で記事を書いてみました。いざ書いてみると、まだ考えのまとまり具合が足りていないんじゃないかと思いました。今より考えがもっとまとまったら、また記事にして、どんどんブラッシュアップしていきたいと思います。

こじらでした

じゃ

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