どうもこじらです。
前回の記事では、死んだはずのラファウがなぜ家庭教師の先生として登場したのかを考察しました。
考察する中で色んなポイントが繋がって楽しかったです。
前回はストーリー終盤、主にアルベルト編をメインに考察した訳ですが、じゃあそれより前の第1~7集の部分はちゃんと読み込めてるのかというと、正直雰囲気でしか理解できていませんでした。
なので読み返しました。
読み返しまくりました。
そしたら、前回に匹敵するレベルで考察が進んだので共有します。
今回はオクジー編です。
終盤のオクジーとバデーニの会話が成立していない!
読み返している中で、面白いことに気がつきました。
場面は、オクジー編の終盤。バデーニとオクジーが会話しているシーン。
身分的にも性格的にもあまり主張することがなかったオクジーですが、異端審問官が迫り本を焼くバデーニに対して、すごくいいづらそうにしながらも本音で意見を述べました。
…あ、あまり他人を排除しすぎると、間違いに気付きにくくなるのでは…?それは研究にとってよくないんじゃ……
(チ。ー地球の運動についてー 第4集 120ページ)
研究姿勢や物事に対する向き合い方に対してのオクジーの考え(というか作者の考え)が明確に書かれたシーンで、この作品の中でここが一番好きって人も多いんじゃないでしょうか。
このシーンですが、会話が捻れていることに気が付きましたか?
私は1回目読んだ時、
「うん。なんか難しいこといってるな…!でも面白い…!」
って感じだったんですが、数回読んでも理解ができず、
「…あれ?なんかおかしいぞ?会話の内容が難しいんじゃなくて、論理的なエラーが起こってる…?」
と気が付きました。
チ。の作者は、練って練ってこねくり回しまくって、読者に作品のストーリーを魅せつつ裏側に込めたメッセージを伝えようとしています。
かなり緻密に作品を作り上げるタイプの作者です。
(多分、ボツを出しまくってひたすらプロトタイプを作りまくってアイデアを出して精度を高めていくタイプの人なんじゃないかと勝手に思っています。)
この作者に限って、論理的エラーは有り得ないです。
てかマンガとして出版されている作品にそんなミスがあるとは考えづらい。
ということはやっぱ、意味があるはず。
前回のラファウ再登場の考察の記事のときも、作中の違和感から紐解いていったら色々繋がっていきました。その成功体験に味をしめたので今回も同じやり方で切り込んでいこうと思います。
どの辺が成立していない?
オクジーとバデーニの会話のどの辺が成立していないのかをまず話していきます。
その前に、この会話は2人がピャスト伯の生き様を見たことが根底にあるので、前提としてその話を少し。
【前提】ピャスト伯の生き様
ピャスト伯の生き様はオクジーとバデーニに大きく影響を与えました。
ピャスト伯は、先代の教授から複雑な数式を用いた天動説を引き継ぎ、その説が正しいことを信じ生涯に渡って研究しました。
それと同時に、ピャスト伯は若い頃に満ちた金星を見ていました。
作中でも説明があった通り、満ちた金星は天動説では説明が難しく、地動説の正しさを示す根拠になり得るものです。
満ちた金星は、史実上はガリレオ・ガリレイが初めて見つけたらしいですね。
ピャスト伯は満ちた金星を見たにも関わらず、先代の教授の生き様を見たこと、当時主流であり2000年の歴史がある説を否定したくない思いから、見て見ぬ振りをして天動説を研究し続けていました。
しかし最期は、ピャスト伯は天動説が間違っている可能性、作中のセリフに準えるのであれば、天動説の研究がただの信仰であった可能性を信じ真理を追い求める姿勢を示しました。
これまで信じ続け、そこに信念を持ち、生きる意義を見出していたピャスト伯本人からしてみると、天動説を疑うことは並大抵のことではありません。
言葉通り自分の人生を否定することになるため、普通の人間には絶対に受け入れることができないものです。
しかも、目の前に真逆の考え方で研究をしている人、ある意味敵と言えるような連中がいる中で。
このように、ピャスト伯はこれまでの信念やプライド等色々なものを捨てることになっても、最期は自分が間違っている可能性を受け入れたのです。
ピャスト伯の想いと反して、バデーニの「50年ですか?」の無神経さがシュールすぎて面白い。
50っていう数字が適当すぎる。てか即答すんなw
オクジーの主張
本題のオクジーとバデーニの会話についてです。
まず、オクジーがバデーニに話した主張をまとめます。
オクジーの主張は、主に以下2つにまとめられます。
『自らが間違ってる可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なんじゃないかってことです。
(チ。ー地球の運動についてー 第4集 122ページ)
反論や訂正をされることが託すことの、本質というか…
(チ。ー地球の運動についてー 第4集 125ページ)
「『自分が間違っている可能性』を信じるのは当然のことで、その姿勢で研究を続けていれば、いずれ自分の代だけでは手に負えず、誰かに託すようになっていくもんだと思うんだけどなぁ…。」
「次の代、次の代と研究を引き継いでいって、みんながその研究の正しさを疑い続けることによって、真理に近づけるんじゃない?」
みたいな感じのことを言っています。
まとめると主張自体はシンプルだと思います。
その時代の価値観や今に至るまでの歴史、自分の身分や置かれている立場等が話をややこしくするだけで。
このオクジーの主張は、”異端者”やグラスさんと違って託す選択肢を持たない、つまりは周りを頼ろうとしないバデーニへの批判そのままと捉えて問題ないです。
もう少し紐解いていきます。
研究における真理、信仰
真理を目指した研究と信仰でしかない研究を明確に区別するのは難しいです。
作中においては、前者が地動説、後者が天動説ですね。
正しい論理を1つずつ組み上げ、正当性を示す道筋が完成して初めて真理と呼べる訳ですが、その中に1つでも誤りがあった瞬間、それは真理とは呼べなくなります。
まぁ、宇宙から地球を観測して地動説を証明するとかいう、ある意味”神の所業”と言えるようなチートが使える場合、つまりは論理を組み立てるまでもなく観測で正統性を示せる場合は別ですが。
誤りがある可能性を否定できない以上、自分の研究がただの信仰である可能性を否定できません。
つまり、自分の研究に誤りが1つも存在しないことを証明することになるので、これはかなり難しいことです。
悪魔の証明ですね。
「ちゃんと査読されてれば、誤りがないことの一旦の証明はできるのでは?」とも思って少し調べてみたんですが、論文を査読する文化はここ最近の話らしく、15世紀ともなれば正当性の証明はもっとザルだったんじゃないかなと思います。
尚更真理に近づくハードルは高かった訳か…。というか論理的正当性が重視されなかったと考えるべきか。
少し脱線しましたが、
オクジーの主張は、正しく研究姿勢を示せていますし矛盾もなく合理的な主張であると言えます。
バデーニの反論と主張
以下は、オクジーの主張に対するバデーニの反論です。
その姿勢を研究に採用してしまうと、我々は目指すべき絶対真理を放棄することになる。そして学者は永久に未完成の海を漂い続ける。その悲劇を、我々に受け入れろと?
(チ。ー地球の運動についてー 第4集 126ページ)
うーん…。
この発言には、ノリが含まれていると思います。
つまり、会話が成り立っていないし、バデーニはこの段階ではオクジーが言っていることを理解できていない。
何度も読み返したんですが、そうとしか思えないんですよね。
バデーニも「大まかには理解した。」と言っていますし。
このバデーニの反論は、言い換えると「ピャスト伯みたいな人生を歩めと?」みたいな問いになるかと思います。
しかし、オクジーは実質的に先代から受け継いだ研究を疑うことも大事と主張しているんですよね。
ピャスト伯は最期こそ疑ったものの、天動説自体を疑うことはせず、満ちた金星が見誤りであったと決めつけ思考停止で研究をしていました。
問題はそこにあります。
つまり、バデーニの反論は既にオクジーに論破されています。
オクジーの主張は、絶対真理を目指すからこそ託すことが重要で、学者が永久に未完成の海を漂い続けないために、研究を疑い続けることが大事って話だと思うので、完全にバデーニの問いをカバーできているんですよね。
オクジーの返答
ただ、オクジーはこう返答しています。
そうです。それでも、間違いを永遠の正解だと信じ込むよりマシでは?
(チ。ー地球の運動についてー 第4集 127ページ)
正直「?」で、割とノリでの発言だとしか思えません。
これもピャスト伯を意識した発言であることは確かですね。
少なくとも「そうです。」の肯定は会話の流れ的には誤りだと思います。
オクジー本人が、既に永久に未完成の海を漂い続けることに対する対処法は示していて、間違いを永遠の正解だと信じ込まないために自分が間違っている可能性を肯定することが大事と言っています。
たしかに、オクジーの主張を受け入れても永久に未完成の海を漂い続ける可能性はあります。
「え、そこまで間違ってたのかよ!」っていうパターンです。
ピャスト伯における天動説自体を疑うがその例ですね。
ピャスト伯も引き継いだ天動説を疑っていなかった訳ではありません。
オクジーがこう言っているので。
ピャスト伯は、誤差や手間のある現状の宇宙像に疑問を持って、新しい宇宙を見つけようとしたんですよね…?
(チ。ー地球の運動についてー 第4集 127ページ)
でも、天動説自体は疑うことができなかったと。
みなさんもこういう経験はありますよね?
どこまで疑えばいいかなんて誰にも分からないことなんで、こういうミスは普通に起こり得る。
という感じで、永久に未完成の海を漂い続ける可能性は研究をする以上絶対にある訳で、オクジーの主張とは関係のない懸念です。
まぁ、間違いを永遠の正解だと信じ込むよりマシってのはたしかにそうっちゃそう。
メンタル的にはきついけど、真理には近づきます。
この会話に対する解釈
この会話から、バデーニはオクジーの主張の正しさと合理性を理解しつつも受け止めることができておらず、オクジーは自身が言っていることの真意を理解できてないんじゃないかと考え、2人に成長の余地が残っていることを示しているんじゃないかと私は思いました。
バデーニは「続けろ」と言って、オクジーの話を聞く姿勢を見せました。
以前のバデーニであれば、有り得ないことです。
そして、会話が捻れている箇所、
「その姿勢を研究に採用してしまうと、我々はー」
の部分も、オクジーから話を引き出すために、そう言っているように見えます。
だから、この会話においては、内容の受け答えが正しいかどうかじゃなくて、バデーニがオクジーに歩み寄って「自分が間違っている可能性」を肯定する姿勢を示しているところが重要なんじゃないかと思いました。
作者すげぇよ
論理性の欠落で2人の未熟さを表現してるってことです。
だってそれしか有り得ないんですもん(逆ギレ)
これは慎重な知性と時に大胆な度胸を持ち合わせてないと成し得ないテクニックですよ、まじで。
バデーニがオクジーの話を聞こうと思ったきっかけ
以前のバデーニではオクジーから話を聞こうとするなんてあり得ませんでした。
ピャスト伯の生き様を知ったときでさえバデーニは態度を変えなかった訳ですが、変化が起こり始めたのはいつか。
それは、オクジーの本を読んだ時なんじゃないかと思います。
オクジーの本を手に取った後、なにやら様子がおかしかったので。
バデーニは何を感じ取ったのか。
我々読者には想像することしかできませんが、まぁ少なくともあの本はめちゃくちゃ面白いんでしょうねw
貧民60人の頭に刻みたくなるくらいの面白さですw
今度飲み会で使お
「おもしろww貧民60人の頭に刻みたくなったわww」みたいな
……。
意味分からないのでやっぱ止めます。
その後の2人の成長
この会話の後、時間稼ぎのために命を危険に晒してまで異端審問官のもとに向かおうとしたオクジーに対して、バデーニは珍しく詭弁を交えながらオクジーを説得しようとします。
会話の中から2人の焦りが見えます。
以下のセリフを聞いて、バデーニは説得は不可能であることを悟りました。
俺は地動説を信仰してる。
(チ。ー地球の運動についてー 第4集 146ページ)
「あ、この会話の流れから信仰とか言っちゃうんだ。じゃあ無理じゃん…。」
っていう目をしてました。
タイプ「ろんり」に対してタイプ「かんじょう」は効果抜群です。
そこから
「なんとかかんとかアーメン」
と詠唱してバデーニがオクジーを送り出す感動のシーンに繋がります。
オクジーの成長
オクジーはバデーニとの会話で分かる通り、既に”答え”に辿り着いていました。
しかし、”答え”の本質についてオクジー本人は噛み砕けてなさそうな雰囲気でした。
その後、ノヴァクに剣を向けられ、死ぬ覚悟があることを自覚し、夢で見た”塔”での教授からの言葉で、自分が何を求めていたかを理解することにより、”すべてを”理解しました。
経験値がLv.100になりました。
バデーニ
バデーニには成長していく過程の明確な描写がありませんでした。
しかし、オクジーの主張を咀嚼し、理解できたことが分かる発言があります。
この世に何かを残して、全く知らない他者に投げるのは、私にとってなんら無意味で無価値だ。しかし、不思議なものでそれを無益だと判断しない領域もあるそうだ。例えば歴史がそうらしい。
(チ。ー地球の運動についてー 第4集 85-86ページ)
これは、第3集の初めの方でバデーニがオクジーに言ったセリフとリンクしています。
は?聖書以外の歴史など私は気にしない。
(チ。ー地球の運動についてー 第3集 13ページ)
バデーニはオクジーの本の内容を貧民の頭に彫ったことを「予防策」と言っていました。
でも、託すことに対して全く理解がなかったらこの行動には至らないんじゃないでしょうか?
しかも、描写的に次の日には貧民のところに向かっていたっぽいので、迷いなく行動に移したと読み取るのが自然です。
オクジーの本に、地動説の理論が書かれていないことは明白。
ということはつまり、バデーニは地動説の感動を伝えることによって、自分たちの解釈とは異なる形であったとしても、誰かにバトンが渡される可能性を残したと捉えることができます。
(まぁ、まじのまじでオクジーの本が面白かった場合も、同じ行動になるかもしれませんがwいや、その場合クラボフスキさんに手紙書こうとしてたの面白すぎるなw)
つまり、オクジーとの会話より前に、自分の名前を残し、金銭的な利益を得るという目的を排除した上で、自分の考え方や研究内容を他者に伝えることの意義を理解できていたと考えられます。
そのため、オクジーから色々言われる前にバデーニも薄々気づいてはいたんですが、自分の考えを曲げることができなかったんだと思います。
これ同じ境遇ありましたよね。
そうです。ピャスト伯です。
バデーニはあんな感じでしたが、ピャスト伯の生き様から確かに学んでいたんだと思います。
でも、学んだからって考えを改められるかは別であって、自身が経験からの成長を自覚できるかは別っていう話。
周囲の人間を舐めなくなった?
バデーニがオクジーを見て、
「あ、下級市民もあなどれないんだな。意外と世の中バカばっかじゃない…?じゃあ託すのも選択肢として悪くない…?」
って感じで、世の中の人間を舐めなくなったっていう要素は大きいと思います。
(作者が意思を持ってこう描いたのかは不明ですが。いや、むしろこっちが本筋なのかな…どうなんだろう…。)
バデーニのセリフには、自分を過信したものも、人を舐めたものもありました。
まぁ舐めたというか、興味がないというか。まぁ舐めたで合ってるか🤔
少なくともクラボフスキさんのことは舐めてた。
バデーニ「この仕事を引き継げるのは、慎重な知性と時に大胆な度胸を持ち合わせた…まさに完璧な英傑だけだろう…」
オクジー「そ、そんな人…どこにも…。」
バデーニ「いる。私だ。」
(チ。ー地球の運動についてー 第3集 6-7ページ)
私は前提として知識の共有に興味ありません。というか嫌いだ。(中略)そもそも、それを扱うのに相応しい資格を持ち合わせてない普通の人に知なんて必要ないでしょ。
(チ。ー地球の運動についてー 第4集 17ページ)
という感じで、周りの人を舐めなくなったことで託しても自分の研究が引き継がれる可能性があることが分かり、それプラスで自分の考え方を改める勇気を持つことができたことによって、
「自分の名前を残せなくても、自分の考え方を残せればそんなに悪くないかも」
みたいな考え方に変わっていったんじゃないかと考察します。
これでバデーニも経験値Lv.100になったと。
考察してみて分かったこと
オクジー編は作中で最も長いストーリーであり、SNSやブログ、Notes等で色々な考察がされていることかと思いますが、最も作者が描きたかったものはオクジーとバデーニの成長だと思います。
研究姿勢に対する主張がメインと捉えている人もいるようですが、作者はあくまでもこの作品は理系より文系の作品として仕上げようとしていると言うか、あくまでも感情や感覚のほうが大事と捉えているように思えます。
いやー、この辺を正確に表現するのは難しいですね。
論理は正しく組み立てる必要があるんですが、その根底には自分の感情的な部分を信念として持つべきであるというか、信念を失うと論理すら危うくなるというか。
まぁこの辺も研究姿勢に内包されると言われたらたしかにそうなんですが、でも本題はそこじゃないっていう。
うん、難しい。
でも、この説明だけでも伝わる人には伝わってるはず。
まぁ、伝わったと思い込んでるだけの人もいるんだろうと思いますが、どこまで理解したら伝わったになるのかの定義が曖昧というかなんというか、伝わってない可能性を肯定することもまた大事というかなんというかブツブツブツブツ
オクジー編の次の編、ドゥラカ編では、この作品の問題提起における明確な解決方法、行動指南とも取れる内容のメッセージが含まれています。
ヨレンタさんが言語化した後に、ドゥラカとシュミット隊長がそれを体現するっていう、「作者少しは余白設けろよ」と言いたくなるくらい明確なメッセージがあります。
ドゥラカ編では、ヨレンタさんが言う「鈍く果てしないにじり寄り」がメインテーマですが、オクジー編でも暗に言及していたんだなと気づき考察していて楽しかったです。
次回、ドゥラカ編を考察していきたいと思いますが、ちょっと言語化するには複雑すぎるので紐解けるかどうか不安です…。
だって経済にまで言及しだしたら収集つかんて。
規模がでかいんじゃ規模が。
いや、でも頑張りたい。
不正解は無意味を意味しない。
(チ。ー地球の運動についてー 第1集 54ページ)
この言葉を信じて、私も思考停止せずに生きていきたい。
こじらでした
まだ読んでなければ、ラファウ再登場の考察も読んでみてください。
じゃ
コメント