人間の能力において”解像度”って超重要じゃね?~人間関係における越えられない壁の話~

現代哲学

どうもこじらです。

人間ってのは複雑です。まじで色んな人がいます。

 

大谷翔平みたいな野球オタク、藤井聡太みたいな将棋オタクがいる中、何にも興味を示さずひたすらうんこをし続けて生きてる人もいますし、周りに対して親切な人がいれば、煽り運転をして謎に人に迷惑をかける人もいます。

 

まじで色んな人がいます。

何が要因でこれだけの多様性があるのかは分かりませんが、人間ってもんが複雑で色んな種類の人間が存在しているのは確かです。

 

そんな複雑な人間ですが、私は人間の特徴はパラメータとして表すことができると思っています。

例えるならサッカーゲームみたいな感じです。

FIFA23 – Kylian Mbappe

 

サッカーの能力に限れば既に(ある程度納得感のある)パラメータ化ができている訳ですが、これを人間のすべてのステータスにおいても適用できるんじゃないかっていう話です。

まぁ複雑かつ曖昧過ぎるものなので、「宇宙の真理を解き明かす」くらいの難易度だと思います。

あと、仮に完璧にパラメータ化できたとしても、ステータスが複雑すぎて何が何だか分からないデータになりそう。

 

 

という感じで今回は、私が人間において最も重要なステータスなんじゃないかと思っている「解像度」について話していこうと思います。

結構面白いと思うので最後までぜひ読んでいってください。

前提①:”解像度”とは?

まず、空中戦を繰り広げないように”解像度”の定義から始めます。

ここで言う”解像度”は、本来の「解像度」とは意味が少し違います。

 

本来の「解像度」は主にITで使用される用語であり、画像の情報量を表すものです。

 

以下のように、解像度が高くなると鮮明になり、逆に低くなると荒くなります。

鮮明であればあるほど、それだけ多くの情報を保持してます。

そのため、解像度と情報量は比例します

 

この記事で言う”解像度”も要領はこれと同じです。

ただ、対象はPC上に表示させた画像に対してではなく、物事について認識したり考えたりしたときの脳の中にあります。

 

人は何かを見たり聞いたりしたときに、それを情報として捉え、それに関連する情報を頭の中で検索して、見たり聞いたりしたものの正体を認識したり、何かを思ったり考えたりします。

 

これは、シンプルなものであれば無意識的に行われているので意識することはないです。

…まぁこの辺の細かい話は横道にそれるので詳しく知りたければ以下のリンクから過去の記事を見てください。この記事で言う”意識”、”無意識”は、基本的に受動意識仮説上の定義です。

受動意識仮説とニューラルネットワークについて~努力と才能~
どうもこじらです。 「努力と才能」というテーマについて、これまでに色々な記事を書いてきましたが、今から1年ほど前に学んだ受動意識仮説のおかげで脳の仕組みについての理解が深まり、「努力と才能」というテーマについてもある程度理解が進んだ気...

 

で、上記の画像では「これは何だ?…これはリンゴだ」と思った訳ですが、この「リンゴ」にも色々情報が含まれています。

  1. リンゴ
  2. りんご
  3. 林檎
  4. apple
  5. 赤くて丸いやつ
  6. 果物
  7. バラ科
  8. 青森県産がおいしい
  9. ジョナゴールド、シナノスイート、王林…

ざっと挙げただけでもこれだけあります。

 

上記の画像では、実物のリンゴを見て「リンゴ」という単語をカタカナの文字として思い浮かんだ例を表していますが、実物のリンゴに紐づく情報は無数にある訳です。

 

ただ、この「紐づく情報」は人によって異なります。

上記で列挙した情報は私の脳の無意識が関連すると判断した情報であって、人によって列挙される情報は違います。

…まぁそりゃそうだ。

 

という感じで、外部から刺激(例でいうリンゴの実物という視覚への刺激)があった場合、人は脳に保存された無数の情報の中から、紐づく情報を検索し、その人の無意識がより紐づきが強いと判断した情報が優先的に頭に思い浮かびます。

(無意識が咀嚼に手間取った場合は、意識に手助けしてもらって再度無意識が判断します。)

 

おそらく、思い浮かぶ情報は今までの経験に左右されます。

 

で、この思い浮かぶ情報の量を「解像度」と表現しています。

解像度と情報量は比例しているんでね。

 

「解像度」について、今回はリンゴを例として表しましたが、これは一例であって頭の中に思い浮かぶ情報のすべて、何もかもが対象です。

風景画を見ているときに思い浮かぶ情報もそう、記者会見の映像を見ているときに聞こえてくる声もそう、道で転んで腰を打った時の腰の感触もそう。何もかもです。

 

そのため、「解像度」というより、「世の中の解像度」と表現した方が個人的には分かりやすいと思っています。

前提②:情報は階層構造で出来ている

前提としてもう一つ、情報の構造について話させてください。

解像度が違う人同士の情報量がどれくらい違うのか、この前提を読むことによって、この辺の解像度が上がるかもしれません。

物事の階層構造

過去の記事で取り上げたことがある気もしますが、抽象・具体についてです。

世の中のすべての物事は階層構造によって成り立っています。

 

「事」は図示しづらいので、「物」で例示します。

以下はシナノゴールドの階層構造です。

シナノゴールドはりんごです。りんごはくだもので、くだものはたべもの、たべものはものです。

このシナノゴールド→りんご、りんご→くだもの…と、より曖昧な単語に置き換えることを抽象化と言います。

 

そしてその逆、りんご→シナノゴールドのように、具体的な単語に置き換えるのが具体化です。

仕組みはシンプルですね。

(果物は本当にすべて食べ物なんだろうか…?🤔)

 

ただ、こういう階層構造は普通に生活する分には意識することは少なく、論理的思考に慣れていない人にとっては理解が難しい内容かもしれません。

 

抽象・具体の論理的な制約

ここでポイントなのは、「シナノゴールドはりんごである。」は成り立ちますが、「りんごはシナノゴールドである。」は成り立たないことです。

 

これは言葉遊びではありません。物事を考える上で超絶重要な話です。

 

会話を例として想定してみましょう。

 

会話①

Aさん「昨日シナノゴールド食べたんだよ。」

Bさん「あ~りんごってなんであんなにおいしいんだろうね~。」

 

これは会話として成立しています。

「○」です。

Bさんは会話がうまそうです。

 

じゃあもう一つ。

 

会話②

Aさん「昨日りんご食べたんだよ。」

Bさん「あ~シナノゴールドってなんであんなにおいしいんだろうね~。」

 

これは「×」です。

Bさんはりんごをシナノゴールドに置き換えて話していますが、すべてのりんごがシナノゴールドに当てはまる訳ではないので、Aさんがシナノゴールドを食べたとは限りません。

 

そのため、Aさんは

(いや、りんご食べたって言っただけなんだけど…。)

とか

(ん?なんでシナノゴールドに限定したの?)

とか謎の気持ち悪さを感じます。

 

 

会話①は「○」で会話②が「×」な理由

会話①は「○」なのに、会話②が「×」な理由は、会話①は抽象化で、会話②は具体化だからです。

 

物事を抽象化しても、会話がねじれることはありません。正しく抽象化していれば絶対、確実に矛盾は発生しないんです。

逆に具体化する場合は、簡単に会話がねじれます。

 

1つだけ具体化しても会話がねじれない場合があります。

それは、Aさんが昨日、実際にシナノゴールドを食べていた場合です。

 

Aさんが会話の中で「シナノゴールド」を抽象化して「りんご」と表現し、それを今度はBさんが、会話の中で具体化して「シナノゴールド」に戻している場合は、会話が成立するんです。

これから分かるように、抽象化は容易におこなって良いですが、具体化するときは元のものに戻さないと論理的矛盾が発生し、会話が成立しなくなるわけです。

 

つまり、前提情報として「Aさんはりんごが大好き。でもシナノゴールドしか食べない。」という事実があり、それをBさんが知っていた場合、会話②は成立するんです。

成立するどころか、Aさんからすると「Bさん、自分がシナノゴールドしか食べないのちゃんと覚えていてくれてるんだ!」という好印象を与える場合さえあります。

 

という感じで、抽象・具体は非常に便利な概念です。知ってるだけで多方面に解像度が上がります。

そして、抽象・具体を理解できていない人、もしくは軽視している人は、会話の中で適切でない抽象化度合いの単語を選んだり、部分的には抽象化できているけど一部抽象・具体の関係性にない単語を使ったりしてしまいます。

 

機械オタクが普通の人とスマホの性能について話している場面で、

機械オタク「ね、最近はスナドラも性能高くなってるよね!」

一般人「ん?スナドラってなに?」

機械オタク「え?スナドラだよスナドラ。Snapdragonだよ。」

一般人(なんだこいつイキってんなぁ…。やっぱオタクってきもいわ。)

ってなったり、

 

友人と会話してる中で、

友人1「自分くんって確かピーマン嫌いだよね。」

自分「いや、嫌いなんじゃなくて、あんまり好きじゃないだけだよ。」

友人1「同じようなもんだろww」

自分「!!?」

ってなったりします。

 

まぁ、具体・抽象以前の問題も色々ありそうですがw

理由の階層構造(原因と原因の原因)

物事には階層構造があると説明しましたが、物事以外に要因や原因にも階層構造があります。

 

例として「バイト中に皿を割ってしまった」を挙げます。

 

その原因を考えた場合、以下のようなツリーが出来上がりました。

「皿を割った」という事象に対して、「あー不注意なのが悪かった…。皿の持ち方も良くなかった…。」と色々思考を巡らせている状況です。

 

こういうときは「不注意が悪かった…。不注意だったのは、寝不足なのが悪かったかな…。流石にBさんが話しかけてきたのも原因の1つだよな…。」と、原因を探ってみると案外色んな要素が思い浮かぶものです。

 

このように、原因には

  • 原因
  • 原因の原因
  • 原因の原因の原因1
  • 原因の原因の原因2

みたいに、階層構造が出来上がります。

 

これを「理由の階層構造」と呼びます。(用語ではなく私がそう呼んでいるだけですw)

原因だけでなく要因を考える場合も同じ構造になります。

 

理由の階層構造と物事の階層構造の性質の違い

この理由の階層構造は、物事の階層構造とは性質が違います。

物事の階層構造は抽象化がベースにあるのに対して、理由の階層構造は具体化がベースにあります。

 

うーん、分かりにくいですね。自分でも分かりにくいなと思いますw

これは階層構造を表した図のツリーの向きを考えると少し分かりやすくなると思います。

 

さっき例示した物事の階層構造について、くだものを基準としてツリーを作った場合、以下のような構造の図になります。

 

これに対して、さっきの理由の階層構造はこんなんでした。

見て分かる通り、物事の階層構造と理由の階層構造は、上下が逆の階層構造になっていますよね。

 

図の上下は、思考の深さを表しています。

上の方が思考が深いです。

 

そのため、物事の階層構造は「くだもの」が最も複雑、理由の階層構造は「寝不足だった」「Bさんが話しかけてきた」…が最も複雑ということになります。

 

「王林よりもくだものの方が複雑?そんなことある???」と思われるかもしれませんが、「りんごはくだものである」くらいの抽象化は簡単ですが、「くだものはたべものである」「たべものはものである」の抽象化は案外難しいものです。

抽象化とは、他の物(または事)との共通項を見つけて、それを総称する名称を探す行為を言います。これは知識がないと難易度が高いです。

 

というような感じで、事象や物事を論理的に表現すると2種類の階層構造があって、私は全部この2つで表現できるんじゃないかと思ってます。

(まぁ、理由の階層構造の方はもっと細かく分類できるかなとは思いますが…。あと要素の階層構造みたいな名前の方が良い気もするけど、まぁまぁまぁ。)

 

解像度が低いとこうなる

世の中の解像度が低い人ほど、原因、要因についての思考が浅いと思います。

上記で挙げた↓これを一旦”正常”な原因分析だとすると…

↓こんなだったりします。

もっと解像度が低い人だと、こんな図になったりします。

「皿割った…。Bさんが話しかけてきたのが悪い…。Bさんが悪い…。全部Bさんが悪い…。」

みたいなw

私はこういう人と関わらないためにはどうすれば良いかを常に考えて生きています。誰か方法教えてください。

 

 

前提はこんな感じです。

“解像度”に対する私の認識と、階層構造について少しでも理解が共有出来てたら嬉しいです。

 

“解像度”の正体は?

なぜ人によって解像度が異なるのか。

脳の仕組みの観点、受動意識仮説的発想で考えると、”無意識”におけるニューラルネットワークの複雑性が人によって差があるからなんじゃないかとは思いますが、アカデミックな領域に足を踏み出して返ってこれなくなりそうなので止めておきますw

 

「どういう構造でそうなっているか」よりも「人の解像度はどうやって形成されているのか」を考えたほうが多分建設的です。

なぜ人によって解像度に差ができる?

私のブログではよく努力と才能についての題材の記事を書いていましたが、この”解像度”は努力で変えられるものなんでしょうか?それとも生まれつきのもの、才能なんでしょうか?

 

これについては断言できます。

解像度は努力で変えられます。生得的なものではなく後天的なものです。

 

なぜなら、「シナノゴールド」を抽象化すると「リンゴ」になることは覚えれば分かることですし、逆に言うと覚えないと分からないことです。

 

これはほとんどの物事に当てはまると思います。

私の場合は、仕事の都合上プログラムに対して解像度が高いです。

↓これが…

System.out.println("Hello!!");

↓こうなってたら気持ち悪くて仕方がないですが、一般の人は違いを見つけるだけでも時間がかかると思います。

System.out.println('Hello!!');

 

(違いは「”」と「’」です。)

 

でも、私にも解像度が低い分野なんて無限にあります。

犬の種類も猫の種類も全然知らないですし、化粧の仕方も知りません。佐川のおっちゃんがどうやって家まで荷物を運んできてるのか知りませんし、お医者さんが何を考えて診察してるのかも知りません。

 

なんで知らないかと言うと、学んでこなかったからです。

そもそもあんまり興味ないですし。

 

という感じで、解像度の高さは経験次第であると言えます。

 

…でも、「なんかこの人解像度低くね?」と思う人は無限にいます。

 

この差はなんでしょう?

…好奇心の差?

「”解像度”を構成する要素はなにか?」これも前提②の「理由の階層構造」の章で述べた通り、要因となるものはたくさん存在していて、それが階層構造になっている訳ですが、個人的には好奇心の差による部分が大きいんじゃないかと思っています。

 

人は学ばないと覚えません。

興味がないと学ぼうとしません。

 

好奇心が強くて色々な経験をしている人は、それだけ解像度が高い分野が多いと思います。

 

解像度は努力で変えられる?本当に???

読解力が高いこの記事の読者なら、「解像度は努力で変えられるって断言してたけど、まじで言ってる?好奇心が解像度において重要な要素って考えてるらしいけど、じゃあ好奇心も努力次第で変えられるってこと???」って突っ込んできそうです。

 

痛いとこ突いてくるなぁまったく…。

 

( ’-‘ )

 

でもそうなんですよ。それだけだと腑に落ちないというか「解像度」について理解不足だと思うんですよ。

 

私は、好奇心は人の性格の根幹を司る部分で、特に大人になってからは揺るがないパラメータなんじゃないかと思っています。

うーん。これは好奇心を分解する必要があるんじゃないか…?

 

解像度と好奇心

好奇心を分解する

この記事を書いている中で「好奇心ってなんだ…?」って思って2週間ほど手が止まっていました。

その中で、現状でできる限りの理解は進んだ気がします。

 

以下で私の自由研究の成果「こうきしんのこうせいようそ」を発表します。はい。

知識からくる好奇心

好奇心について考えていると、「興味って知識があるものにわくよね、普通。」というこの記事を終わらせる気がない最悪の答えに辿りつきました。

 

  • 解像度は知識で上げられる
  • 知識は好奇心次第
  • 好奇心は知識次第

あーもうだめだよこれは。知識と好奇心の循環参照だよ。と思いました。

 

でもこれは事実だと思います。

サッカーに詳しい人が、野球とサッカーどっちの話題に興味を持つかって、そりゃサッカーに決まってますもんw

 

じゃあ、子どもの頃は運ゲーで好奇心を持っていたのかというと、そんなことはないはずです。

人間の子どもの興味が「生まれて最初に見たものを親と認識する」みたいなアヒルみたいなシンプルな構造なわけがないですしw

 

好奇心のベクトル(文系的好奇心、理系的好奇心)

サッカー、野球みたいな大きな括りでの好奇心の場合は、刷り込みというか、割とアヒルみたいなシンプルな構造かもしれませんw

でも、そのサッカーとか野球とかの括りの中でさらに細分化した場合、好奇心のベクトルって人によって大きく変わるんじゃないかと思います。

 

「メッシっていうすごい選手がいるんだ!」って知った後

「他にはどんなすごい選手がいるんだろう!!?」ってなる子ども、

「メッシはなんですごいんだろう!!?」ってなる子ども、色々いると思います。

 

前者は選手に対して注目していて、後者はテクニックや起こった現象に注目しています。

同じく「サッカーに興味がある」と言えますが、すごく大きな差だと思います。

 

余談かもしれませんが、私はこれらを文系的・理系的と表現してます。

「りんごおいしい!他の果物はどんなのがあるんだろう!?」みたいな、物事の階層構造における横方向の興味を文系的、「りんごおいしい!りんごにはどんな種類があってどんな違いがあるんだろう!?」みたいな下方向の興味を理系的と表現しています。

 

あ、あと「りんごの成分はなんだろう!?おいしいの原理はなんだろう!?」まで到達する人を偏執狂と呼びます🤗

現代なら人権あるけど、もっとウホウホしてた時期にもそういうヒトはいたんだろうか…?生きづらそうだ…

 

疑問に思う力

好奇心においては「疑問に思う力」もすごく重要な要素かと思いました。

まず疑問に思わないと何も始まらないですからね。

 

その中でも、「他にどんなのがあるんだろう!?」よりも「これってどうなってるんだろう!?」みたいな理系的な疑問を持つかどうかは、その分野における理解に大きな影響を及ぼしそうです。

広く浅くじゃ暗記で終わっちゃいますし、共通項を見つけて仕組みが理解できたときに一気に理解が進むものですからね。

 

その点、世の中には何に対しても疑問を持ってなさそうな人もいっぱいいます。

「あ、テレビだ。テレビはおもしろい。有吉だ。有吉はきらいだ。橋本環奈だ。橋本環奈はかわいい。」

みたいな刺激に反応するだけで発展性がない人もいる訳で。

 

…うん、話が逸れました。彼ら彼女らについて考えても時間の無駄です。

話を戻します。

 

この理系的な疑問を持つ人は、物事を理解するのに相乗効果を生ませて効率的に吸収できそうです。

 

吸収する力・整理する力

好奇心を持つには知識が重要というのは前述の通りなので、つまり、少ない経験からより多くの知識を蓄えることが好奇心において重要な要素と言えるかと思います。

そして、整理して共通項を見つけられると「サッカーはこうだったけど、野球でも当てはまるのかな?」みたいに、興味の幅が広がります。

 

この「興味を持つ」→「経験する」→「学ぶ」→「興味を持つ」のサイクルの質と量によって、人それぞれの好奇心と知識に大きな差が出てそうです。

 

【結論】解像度と好奇心の関係性

色々考えて、ある程度の答えは出た気がします。

 

まぁ端的にまとめます。

  1. 好奇心にもサッカー、野球みたいな大枠に対する好奇心と、もっと細分化した好奇心では意味合いが大きく異なりそう
  2. 好奇心にもベクトルがあって、ベクトルの数、太さ、向きは人によって大きく差がありそう
  3. 理系的な疑問(下方向の好奇心)は相乗効果を生みやすく、好奇心と知識に大きな影響を与えそう

こんな感じですね。

 

サッカー、野球みたいな大きな括りで言えば、解像度は努力次第で上げられそうですが、好奇心の範疇を出ることはなさそうなので、結局その先はその人の好奇心の性質次第かなと言った感じです。

 

そのため、「解像度は努力で変えられるか?」と問われたらYesですが、「限界値は人による」の補足を入れるのが正解という訳ですね。

 

はい。

とりあえず、この論題において学術的な知識をインプットせず、私の知識と経験から導き出せる結論はこんな感じで、私の解像度の鮮明さはこれくらいっていうことが分かりました。

あとがき的なやつ

記事の内容としては、まぁ及第点かなといった具合で、内容の難しさを考えるとよく頑張った方かなと思います。

機会とやる気があれば、ちゃんと解像度を分類してみようとも思いますが、私自身の新しい学びが得られるか微妙なのでモチベは低めです。

 

まぁ、最後になりますが、”解像度”ってやつは人の相性にも大きく影響してくると思います。

人は一緒に同じ時間を過ごすと、価値観が共有できて相手のことをより理解することができます。しかし、相手の価値観や仕草等、相手のすべてを受け入れるのは難しく、そこから歪みが生まれ、人間関係に亀裂が生まれやすいです。

 

ただ、相手が「自分の相手に対する配慮」と同じくらい自分のことを配慮してくれていたり、相手の価値観や仕草に意味があり、自分の思考の水準にあったレベルの説明があったりすれば、相手を受け入れることができます。

 

一般的には、これを「互いに尊敬できる関係」と言うと思います。

(そして「互いに尊敬できる関係」を言語化するとこの記事が出来上がる…のかもしれない。)

 

これの難しいポイントは、双方向である必要があることです。

相手の配慮が自分の配慮より複雑だった場合、相手の感情から亀裂が生まれます。

自分の配慮が相手の配慮より複雑だった場合、自分の感情から亀裂がうまれます。

 

さらに話をややこしくするのが、「解像度が低い人は解像度が高い人が何を考えてるか分からない」というものです。

裏付けもなく私の経験則から話してるのであれですが、まぁこれは正しいと思います。

 

会話するとき、解像度が高い人は低い人にある程度合わせることができます。ただ、前提で述べたような気持ち悪さや違和感を常に感じますし、その気持ち悪さを相手に伝えたところで、相手にはほとんど、もしくは全く理解してもらえません。

そのため、ひたすら気持ち悪さや違和感が積み重なっていき、疎外感や孤独感のようなものを感じるようになっていきます。

そして、解像度が高くて賢い人は、相手に気持ち悪さを伝えても自分が不快になるだけだと理解しているので、相手に伝えることはありません。

そして、解像度が低い人は、それに気づくことができず、より状況が悪化していくという。

 

解像度に乖離がある2人が、お互いが”正しい”選択をし続けるとこういう状況が発生します。

ゲーム理論の「囚人のジレンマ」の状況です。

そのため、価値観の乖離であれば修正が効きますが、解像度の乖離は難易度が高いんです。

 

そんな感じで、解像度というステータスは人にとって超重要で、人間関係を意識した場合も超重要だと思うよって話で、今回の記事を閉めさせてもらいます。

 

こじらでした

じゃ

タイトルとURLをコピーしました