どうもこじらです。
先日、「このブログに来る人はどういう検索ワードを打ち込んでいるんだろう?」と思い、調べてみたら「論理的 うざい」と入力して検索をかけている人がけっこういることが分かりました。
それを踏まえ今回は、論理的に見えて論理的じゃない人間、学名「ロンリテキモドキニンゲンダマシ」の生態について迫っていきたいと思いますw
くっさww
ロンリテキモドキニンゲンダマシ
私は人は論理的であるべきだと思っています。理由は、
- 論理的に考える→考慮漏れをなくすために客観的になる
- 客観的に見ることができる→相手に不快な思いをさせない→正しい行動ができる
というように、論理的に考えたら、自然と正しい行動ができるようになるはずだからです。
詳しくはこの辺の記事をどうぞ。
つまり、人に「論理的でうざい」と感じさせている時点で、その人は物事を論理的に考えられていないということになります。
今、誰か思い浮かぶ人がいましたか?もしいたら、その人が「ロンリテキモドキニンゲンダマシ」ですw
まぁ実際、論理的な思考をする人は話し方が説明口調になりやすく、「なんか偉そう」「理詰めしてきてうざい」とネガティブなイメージを持たれがちです。このブログがまさにそれである。
でもそれを見て、「論理的だからうざい」と片付けるのではなく、本当に悪い部分を理解して批判するべきだと私は思います。
「なんか偉そうでうざい」の場合
論理的に話されて、「なんか偉そうでうざい」って思うのは、相手が見下すような態度や発言をしているからうざいんですよね。
論理的以前の話です。尊敬できない相手から見下すような発言をされたらそりゃうざいですよw
会話のフィールドの問題
相手が論理的でうざいと感じる場合は、相手の話のフィールドにまんまと乗せられている可能性があり、それが原因でうざいと感じているかもしれません。言い換えると、論点のすり替えですね。
相手の論理的な説明が長くなると、相手の説明内容を理解しようとするあまり、本来の自分の意見が何だったのか分からなくなる場合があります。ただ、それは相手が論理的なのが悪いんじゃなくて、論点をそらして自分に都合の悪いことから目を背けようとしていることが悪いですよね。
それに、相手が自分の当初の意見に対して真っ向から対峙してきている場合、「論理的でうざい」とは思わないと思います。話の内容が自分の視点に合っているので、むしろ、「論理的で分かりやすいな」って思うと思います。
まぁ、相手が正論を言ってて自分の発言の間違いに気づいたけど、それを認めたくなくて「論理的でうざい」と言っている人もいるかと思いますが、まぁそれは論外ですねw
思考の差を埋められていない
上でも少し述べましたが、論理的に見える相手が、相手の視点に立って話すことができないただの話下手という可能性です。
相手の知識や思考レベルに合わせて話をするというのは話の基本中の基本です。共通じゃない友達の話をしたり、興味ない趣味の話をされても、当然面白くないですよね。それと同様に、論理の複雑性も相手に極力合わせるべきだと思います。複雑な説明にしないとうまく説明できない場合であっても、簡単な言葉を多用するなど、工夫の仕方は色々あります。
てか、論理的じゃなかったらもっとやばそう
「論理的に話しててうざいな」と思う相手が、もし論理的に話してこなかったらと思うと、それはそれでもっと強烈でうざいんじゃないかなと思いますw例えるならスーパーでだだをこねる子どもがそのまま大人になったような感じです。いい大人が感情を感情に訴えてかかってきたら、それはもう恐怖でしかないですねww
まとめ
ロンリテキモドキニンゲンダマシの生態をまとめると、
- 視野が狭くて、物事を客観的に見ることができない
- すぐ論点をすり替える
- 相手の知識や思考レベルを理解できない。もしくは理解しようとしない
って感じです。
全体のまとめとしては
- 論理的な人は客観的な視野で物事を見ることができるため、真の論理的な人間はうざいと思わないと思う
- 尊敬できない相手に見下されたら、説明の内容以前に普通にうざい
- 相手が論理的でうざいと思う場面では、論点のすり替えがされている可能性が高い
- 論理的でうざい人はただ話が下手なだけかもしれない
って感じですね。
まぁ、いくら論理的に考えようとして客観的な視点に立っても、空から俯瞰して人間を眺める「神様」にはなれませんし、真っ当な人間だって過ちを犯すことがあります。そのため、誰でも「ロンリテキモドキニンゲンダマシ」に成り得る訳ですね。
私もよく気を付けていきたいなと思います。
こじらでした
じゃ
コメント