感情と論理について考えたことはありますか?

生きる上でのノウハウ

どうもこじらです。

最近なんか、物事を考えるとどんどん自分という存在から離れていくような感じがします。

「論理は自分じゃない。」と感覚的に実感します。

今回はこの辺の話をしていきます。

感情、論理の整理

そういえば、感情と論理については過去の記事で一度話していました。

論理と感情について私なりの考えを語る
どうもこじらです。 みなさんは論理と感情について考えたことはありますか?多分心理学では感情論理と言われているものだと思うんですけど、これを勉強したことはないので、ちょっと分かりません。活字を読むのが苦手でして。 まぁ私なりの解釈...

2年前の記事なので、内容酷いんだろうなーと思って読み返してみたら意外とちゃんとしてましたw

グッジョブ過去の自分👍

 

まぁこの記事に飛んで読みに行くのは面倒だと思うので、内容を簡潔に言っておくと、「論理は感情をきっかけとして組み立てられるんだよ。」っていう内容です。

今の私も意見は同じです。(てか今回の記事と内容被るな…。まぁいいかw)

 

今回の記事では、まず感情と論理について世間で誤解されてそうな点について私の意見を述べた上で、より明確に整理しようと思います。

 

感情・論理は度合いの話

私は16personalitiesが好きで頻繁に診断しています。メンタル面の調子がいいときは仲介者、悪いときは論理学者です。うん、どうでもいいですねw

 

ここでの話は、その16personalitiesで3桁目に当たる項目を想像してもらえれば分かりやすいです。

 

意思決定や判断において、感情・感覚に任せるか、論理として思考するかは人それぞれです。

で、頭を使う癖がついていない人は物事を1か0かで判断しがちな傾向があります。

 

この感情・論理についても1か0かで考えちゃう人がいそうなので、先に訂正しておきます。

 

「論理的か感情的か」という指標は完全に度合いの話です。

 

これは逆説的に考えると分かりやすい。

 

仮に、全く頭を使わずに物事を判断する「100%感情(感覚)で判断する人」がいたら、その人は人間じゃなくてゾウリムシかなにかですよねw

刺激に対する反発で意思決定をしている人です。(あれ?でもそういう人、世の中にいるなぁ…🤔)

 

逆に、「100%論理で判断する人」がいたとしたら、その人は人間じゃなくてアンドロイドかなにかですねw

 

“論理的な人”という表現は厳密には誤り?

“論理的な人”という表現は、世間ではどういう使われ方をしてますかね?

 

最初に思い浮かぶのは、論理の扱いが上手い人を”論理的な人”と表現するパターンですね。

「この人話し方論理的…。論理的な人!!」って感じw

 

でもこれ、違和感ありますよね。

地理が得意な人を”地理的な人”、サッカーが上手い人を”サッカー的な人”と表現するのと同じ感じがしますw

「この人サッカー上手い…。サッカー的な人!!」

じわる😂

 

じゃあ今度は、意思決定や判断において、感情・感覚よりも、論理を重視する人を”論理的な人”と捉えるパターンを考えてみます。

言い換えると、物事を直感的に判断するんじゃなくて、よく考えてから判断する人のことを”論理的な人”と表現するパターンですね。

 

この場合、言葉の意味的には少し違和感がありますが、考え方的には意味が通ります。

 

人が物事を考える際、最初の出発地点は絶対に感情(感覚)的なものから始まります。論理から思考がスタートすることは、まずあり得ないと思います。

 

整理すると以下の図の通り。

まず初めに、感情(感覚)的なものが頭の中にもやもやと浮かびます。

 

そして、そのもやもやしたものをより高度な思考に繋げたり、人に伝えたりしようと思ったときに、論理で組み立てようと考えます。

そして、もやもやとしたものを加工した結果、出来上がったものが論理です。

 

うーん、考える癖がついてる人のことを”論理的な人”と表現している気がします。

やっぱ違和感あるなぁ…。

 

感情と論理は交わらない

感情に対して論理を持ち出したり、論理に対して感情を持ち出したりするのは土俵違いです。

 

例として、浮気した夫と、それに対して理由を求める妻がいたとします。

「ねぇなんで浮気なんかしたの!?ねぇなんで!!?」つってw

 

この場合の妻の行動は間違いですww

いや、気持ちは分かりますが、でも間違いですww

理由は、感情をきっかけとした行動に対して論理を求めても、後付けになるだけだからです。

 

いや、仮に夫が、夫自身の感情を度外視にして、論理的に考えて浮気していたら話は別ですがww

まぁそんな訳ないですよねw

論理ではなく、もっと根源的な欲求が動機で浮気したに違いないですw流石にw

 

妻側も、夫が論理的に考えて浮気してるなんて思ってないと思いますwそれなのに、理由を求めるというのは野暮ですし、土俵違いですw

 

しかも夫が頑張って理由付けて答えたら、「どうせ後付けでしょ!?」ってキレるんですよねww

↓構造的にはこういうことです。

いや、夫不可避😂

 

なので、夫の浮気に気づいた妻のみなさんは、感情に任せて夫をボッコボコに殴るのが正解です。

「感情には感情をッ!論理には論理をッ!!」と言いながら、馬乗りになってタコ殴りにしましょう。

そうすることによって、土俵を合わせて戦うことができるので、最も合理的で賢いです。偏執狂感もあって好印象です☺️

知らんけどw

 

まぁという感じで、感情と論理は交わりません。

論理に対して感情をぶつけると、「でもそれってあなたの感想ですよね?」で論破されます。

感情に対して論理をぶつけると、「うるせぇ!!」で片づけられます。

 

そのため、人と議論や討論をするときは、その人の発言が感情による主観的な発言なのか、論理によって作られた客観性を持った発言なのかを見極めて話すと良いという訳ですね。

 

感情は伝えられない

感情は言葉にできません。言葉にできないので伝えることができません。

この認識も大事。

 

感情・感覚をそのまま人に伝えられる人がいたら、その人は人知を超えた天才か、エスパーです。

それができたら言語なんていらないんでw

人は、感情・感覚を言葉にするとき、意味の切り取りをします。

 

例えば、人に感謝したいとき、「ありがとう!」と言ったとします。

その人の感情・感覚の中には「ありがとう!」という意味は一応含まれているでしょう。

しかし、その「ありがとう!」には含まれていない感情・感覚もたくさんあると思います。

「うれしい!」とか「でもこうだった方がもっとうれしかった!」とか、他にも言葉にできない感情もたくさんあるはずです。

 

言葉として存在していないために、自分が気づいていない感情もあるでしょうね。

これらすべてを合体させた一つの感情が、その人が感じた本当の感情です。

 

そのため、感情は言葉にした時点で”別のなにか”に変わっているので、その人の”本当の感情”ではないです。

 

このことによる弊害は多く、相手に自分の意思を伝えられずもやもやしたり、相手を誤解させてしまったりします。

更に言うと、自分が論理(言葉)に囚われて、自分の”本当の感情”が分からなくなってしまうことにも繋がりかねません。

 

論理は便利ですが、扱いが厄介なんです。

論理的に話せる人は感覚的であることが多い?

これは私がリサーチして結果を出したわけじゃないので正しいかは分かりませんが、難しいことを論理的に話せる人は、実際の頭の中ではすごく感覚的にこなしてるんじゃないかと思います。

即興で話している場合は特に。

 

言い換えると、「論理的に話すには、論理を感覚的に理解する必要がある」といった感じでしょうか。

話すペースに合わせて、物事の整合性を検証しつつ証明して…証明した物事を組み立てて……

なんて超高度なことをやってる人はいないと思いますからね。

 

余談ですが、人が話をする際のプロセスを、プログラミング的思考に当てはめて考えると結構すごいことやってるんですよね。最近気づいちゃいました。(この辺は近いうちに記事として書こうと思ってます。)

 

感情・論理を明確に

感情と論理について、なんとなく私の意見がどういうものか理解してもらえたかなと思います。

ここからはより明確に、直接的に書き表していきます。

感情(感覚)

  • 主観的
  • 抽象的
  • 人には伝わらない
  • 正確に言葉で表すことはできない
  • 人間自身がもっているもの

感情(感覚)は、人それぞれが持つすごくファジーなものです。そのため、主観的ですごく抽象的です。

ふわっふわでモクモクしてます。

 

そして、感情(感覚)は人に伝えることができません。

知識があって色んな言葉を知っている人、普段から論理を鍛えている人は、これを論理(言葉や身振り等)に当てはめて、自分の感情をより正しく人に伝えることができますが、それでも100%正しく伝えることは絶対に不可能です。

 

論理を扱えない人とは絶対に会話することはできないということになりますね。

論理

  • 客観性を持つことができる
  • 具体性を持つことができる
  • 人に伝えることができる
  • 組み立てることによって複雑性を持たせることができる
  • 人間自身はもっていないもの

論理というのは、何かしらのフォーマットに沿って物事を組み立てたものです。

日本語というフォーマットを使う場合は、日本語について理解がある人に対して、自分の感情・感覚を部分的に伝えることができます。

日本語で表現できることの範疇であれば、より複雑に表現していくことが可能です。

 

このフォーマットは、複数の人間の共通認識である必要があるため、客観性を持たせることが可能です。

そして、そのフォーマットは、人間自身が生得的に持っているものではありません。文化や慣習のようなものから、経験を通じて習得するものです。

 

つまり、論理によって思考した考えは、自分自身の直接的な考えではありません。

そのフォーマット自身が持つ文化(フォーマットの設計思想、思考の偏り等)に、少なからず影響を受けます。

 

そのため、論理に溺れると自分を見失います。

日本語というフォーマットを使い論理を操った場合、自分の思考が日本語に寄ってしまい、自分自身の本来の感情・感覚が薄れてしまうことがあります。

 

まぁ、こういった悩みを持つ人は少数でしょうけどね。

 

論理は便利ですし、学べば誰でも会得できるものです。

でも、便利が故に論理には溺れないように、自分自身の根源的な感情・感覚を忘れないように気を付けるべきだよっていう記事でしたw

 

こじらでした

じゃ

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