どうもこじらです。
2024年冬、2025年冬アニメとしてNHK総合で二期連続で放送している「チ。」ですが、アニメをきっかけにマンガを全巻読みました。
このマンガはまじで面白いです。
信念、信仰から探究心、人間の生き方や人間社会の恐ろしさと不安定さなど、題材として扱ったら作品として完成させるのが困難な難しすぎる題材を扱い、見事にまとめ上げていることが「チ。」という作品における最もすごい部分だと思います。
作者は…1997年生まれ…?おれの2個下かよ狂ってんなまじで人生何周してんねん
このマンガにおける考察ポイントは無限にあるんですが、その中でも一番不可解な部分、「はいよろこんで」でいうトントントンツーツーツートントン部分である、
最終巻でなんでラファウ登場したん???
について私の考察を書いていきます。
以下、ネタバレを多分に含みます。既にマンガで最終話まで読んでいて、考察を深めたい方のみ読んでください。
まぁぶっちゃけタイトルにも少しネタバレがある?ように見えなくもないですが、マンガとしては2年前に完結していますし、ラファウが登場しただけで生きているか生きていないかには言及してないし問題ないような気はしますが、詰められたら反論できない気もします。でもラファウ登場に関する考察が見たい人がたどり着けるタイトルにしないといけないので、こうするしかないというかなんというか。ブツブツブツブツ
ラファウは生きていた???
ラファウは最終巻である第8集において、アルベルトの家庭教師の先生として再登場しました。
読者全員が
「え!!?ラファウ!?なにこれどういうこと?死んだはずだよね???え、これもタウマゼインってコト!!!?」
と混乱したはずです。最期のノヴァクもびっくりの混乱ぶり。
チ。は緻密に考えられた作品です。
あ、緻密の「チ」ではないですよ、はい。
……。
こんな緻密に考えられた作品での違和感マシマシな再登場なんで、意味があるに決まっています。
まず潰しておくべき可能性は
ラファウ生きていた説
です。
先に述べておきますが、この説はまずあり得ないと思います。
ラファウの死はノヴァクが見届けている
ラファウは第1集でケシの実を混ぜた毒物を飲んで自害しており、ノヴァクがラファウの死体が燃え尽きるまで見届けています。
ノヴァクはヒトにおける怠惰な部分が強く描写されているキャラクターですが、その反面推察の鋭さや冷静さに長けた人物です。
簡潔に表現するなら超優秀な”普通の人”
特に疑い深さが異次元で、「それ流石にメタ視点じゃないとそうならなくね?」と思えるレベルのものがちらほらあります。
第7集における、異端解放戦線が本を狙ったという情報から的確にC教正統派打倒が目的であると見抜き、さらに活版印刷が関わっているということまで推察しています。
「いや疑い深さと推察力がいくらあっても辿り着けるもんじゃなくね?w」っていう
でも、囚人であるラファウが出した酒を普通に飲んでたり、袖が血だらけの状態で街を出歩いてたり、なんか色々ツッコミどころがあるキャラです。
そんな感じで、
“普通の人”としての感性を持ちつつ、それだけの疑い深さ、鋭さと冷静さを持ち合わせたノヴァクがラファウの死を見逃すことはあり得ないと思います。
生きていたとしたら時間軸が合わない?
時間軸からもアプローチしてみましょう。
チ。は時間軸を掴むのが難しいですが、ラファウの死からドゥラカの死までの時系列は明確に書かれています。
- ラファウ、12歳で死亡
- オクジー初登場はラファウの死から10年後
- ヨレンタ、14歳で地動説(=バデーニ、オクジー)に出会う
- ヨレンタ、39歳でドゥカラと出会う
なので、
10 + 39 – 14でラファウが死んでからドゥラカの死までは35年経っています。
アルベルトの方は明確な時系列はありませんが、幼少期にラファウ先生と出会い、大学生になる直前にポトツキ宛の手紙が届いています。
史実上のアルベルト・ブルゼフスキは23歳で大学に入学しているみたいです。
「幼少期」が曖昧ですが、まぁざっくりとラファウ先生に会ってからポトツキ宛ての手紙が来るまでは10〜15年としておきますか。
ドゥラカが手紙を出してからアルベルトのもとへ届くまでのタイムラグは流石にほぼないと思うので、ラファウの死から20〜25年後にラファウ先生として登場してることになります。
ということは、ラファウ先生は大体32〜37歳くらいということになります。
うーん…。それにしては見た目が若い気もします。
が、流石に根拠としては弱い気もします。
“集まり”で「大将」って呼ばれてるしなぁ…。
荒木飛呂彦もあの見た目であの歳な訳だし()
性格が合わない?
12歳のラファウは頭脳明晰で要領が良いキャラクターとして描かれています。
フベルトとの出会いで地動説とこの世界の美しさに魅せられ、「合理的に生きる」という信条が揺らいでいく訳ですが、いずれも善良な賢い少年って感じで悪いやつではないです。
が、”ラファウ先生”は血の気が多いんですよねw
「賢さや知に対して寛容であるべきだ」という思想が強く、資料を読ませてくれなかったアルベルトの父親に対して、「犠牲はやむを得ない」と言って殺しました。
そして現場を目撃したアルベルトに「冷静になれよ」と言う始末。
流石に12歳の頃と比べたら性格が違いすぎるんじゃないかとも思えますが、これはどうなんでしょうか?
ただ、これは12歳ラファウとラファウ先生が同一人物であることの反論としては弱そうです。
たしかに、血の気は多すぎるんですが、ヨレンタさんは「20歳で初めて人を殺した」と言っています。
初めてってことは1回じゃないんだろうなぁ…。
あのヨレンタさんでも環境によっては殺しをする訳です。
そう考えると、死や殺しに対する価値観は性格よりも環境や時代背景に大きく影響を受けると考えるべきでしょう。
少なくともこの作品では。いや、現実世界でもそうか。
ラファウにおいても、ラファウ先生になるまでの過程で何度か殺しの経験があった場合、あのような人物像になる可能性は十分にあると考えるのが自然でしょう。
アントニ助任司祭も異端審問官じゃないのに当然のようにヨレンタさんの歯抜いてたしなぁ…。
普通の聖職者のはずなんだよなぁ…。
結論:ラファウはちゃんと死んでる
なんか、ラファウ生きてた説完全には否定できないんじゃないかみたいな流れになりかけましたが、ノヴァクが死を見届けているので、流石に第1集時点でちゃんと死んでると思います。
ちゃんと死んでるってなんだw
現代では違和感を感じるフレーズ。
うーんいい時代
まぁ、ちゃんと死んでると思います。
一番の理由はラファウが死を見届けていることですが、ラファウが生きていたことに対して説明がないことも理由として大きいです。
メタ的な発言で申し訳ないですが。
チ。ではメッセージ性やストーリーのテンポを重視してなのか、ちょっと強引じゃね?と思えるストーリー展開はあるにはありますが、流石に「実は生きてましたーww」が起こるマンガではないです。
仮に生きてたとしたら作品の重みがなくなりますし、オクジーは?バデーニは?フベルトは?グラスさんは生きてるの?ってなって根幹が揺らぎます。
アブドゥルが突然死んだのとは話が違うんです()
はい、ってことで、ノヴァクのキャラ設定的にもストーリー的にも、ラファウは流石にちゃんと死んでるっていう結論です。
チ。の要点を整理する
ラファウが生きていたというクソ説を排除した場合、ラファウが再登場した理由には深い意味があると捉えるのが妥当です。
が、まずラファウがアルベルトの先生として登場するまでの、チ。の要点を軽くまとめようと思います。
そうしないと何も語れないので。
最終巻第59話前後での違い
第59話から最終話まではアルベルトの話ですが、その前後で変化があるのが分かります。
冗長なので第59話以降をアルベルト編と呼びますね。
アルベルト編より前は15世紀P王国某所のようにぼかした表現を使っていましたが、アルベルト編からは1468年ポーランド王国都市部という実在する表現を用いています。
アルベルトはアルベルト・ブルゼフスキという史実上に存在する人物であり、かの有名なコペルニクスの師匠です。
そのため、アルベルト編より前の完全な創作と、アルベルト編以降の史実に基づいた創作を区別して描かれていると考えられます。
この作品は宗教上の題材を扱っており、かつ史実を孕んだ内容であるため、かなり繊細なものとして扱われています。
ヨレンタさんが文字を「奇蹟」と呼んでおり、作者が本の影響力を認識しているのは明白です。
キリスト教ではなくC教、カトリックではなく正統派、プロテスタント(というよりフス派?)ではなくH派と呼ばれているあたりからも、その慎重さが読み取れます。
アルベルトに接触した人物
アルベルト編より前の”完全な創作”の部分で登場した人物の中で、アルベルトに接触した人物は、
告解室(こっかいしつ)にいた元々新人異端審問官だったレフと、
ポトツキへの手紙を送ったドゥラカの2人だけです。
(あと、まぁ一応ラファウ先生。)
あいつの名前レフって言うんですね。ヨレンタを逃さなかった方のやつです。
この2人はアルベルトと接触はしていますが、
レフは告解室で顔を見せずに接触、
ドゥラカは手紙でのみ接触していて、どちらも敢えて直接接触させていないことが分かります。
アルベルトは手紙を直接読んでないですし、ドゥラカは既に死んでます。ここまで結合度が低い接触はなかなかないと思いますw
一応地動説のバトンは繋がりましたが、繋がったと言えるのか微妙なレベルでしか繋がっていません。
レフは第1集の最初の最初のフレーズをアルベルトに託しています。
硬貨を捧げれば、パンを得られる。税を捧げれば、権利を得られる。労働を捧げれば、報酬を得られる。なら一体何を捧げれば、この世の全てを知れる?
(チ。ー地球の運動についてー 第1集 7ページ)
まさかアニメで初めて名前が公開されるようなキャラがこのフレーズを回収するとは。
主題とも取れるこの問いかけをアルベルトに託しています。
レフ、ドゥラカは直接接触してないとはいえ、アルベルトの人生に大きな影響を与えました。
レフとの告解室での会話がなかったら大学に行くことはなかったはずですし、ポトツキへの手紙がなければ地動説を唱えることはなかったかもしれません。
というように、レフ、ドゥラカがアルベルトに多大な影響を与えていることはこの作品において重要なポイントであると言えるでしょう。
“15世紀の人”
ノヴァクの最期、幻覚のラファウはこう言っていました。
過去や未来、長い時間を隔てた後の彼らから見れば、今いる僕らは所詮、皆 推しなべて”15世紀の人”だ。
(チ。ー地球の運動についてー 第8集 84ページ)
地動説に関する史実の始点は、実質的に23歳のアルベルト・ブルゼフスキな訳で、記録が残っていない人は”15世紀の人”と認識されます。
というか、現代の日本人からしたら「中世らへんの人」くらいざっくりした認識かと思いますがw
でも実在したアルベルト・ブルゼフスキより前にも地動説に関わった人は確実にいる訳で、ラファウやオクジーたちに値する人が、現実世界で存在していた可能性も否定はできません。
創作と言いつつも、たまたま歴史と完全一致した作品に仕上がった可能性もなくはない訳で。
あ、C教はキリスト教じゃないし、P国はポーランドじゃないので、その可能性はないってことになりますかね。はい、ないことにしておきます。
まぁという感じで、チ。の作者は宗教が絡む繊細な題材において
「創作ですよ」といいつつ、
「でも本当かもしれないですよー」といいつつ、
「あ、P国はポーランドではないですよw何言ってるんですかw創作ですよ?w」
と、現実世界に言及しながらも特定の界隈を攻撃しない絶妙なバランスを考えた結果この描き方に行き着いたんだと思います。
もしかしたら私が知らないだけで、別の作品ですでにこういった手法が取られているんですかね?
いずれにしろ上手いやり方だなと思いました。
ラファウは”15世紀の人”の象徴
ラファウはチ。というストーリー、そして地動説のバトンを繋ぐ上で最も重要な役割を果たしました。
ノヴァクの最期に幻覚として無理やり登場させるほどの人物ですw
あのシーンもラファウじゃなく娘のヨレンタでも良かった訳で、でもラファウが登場したんです。
「娘が爆散するシーンを目の前で見たのに、幻覚で見るのは35年前に会った少年かよ!」と思った人は私だけじゃないはずw
これはラファウを”15世紀の人”、つまりは史実に名を残さなかった地動説に関する重要人物を象徴づける存在としたかったのではないかと考えました。
だからラファウの口から”15世紀の人”っていうワードを出させて、ノヴァクの死に立ち寄らせたんじゃないかと。
チ。は「地」「知」「血」
チ。のタイトルの意味は、「地」であり「知」であり「血」であることが明言されています。
地『ziemia』?
チ。ー地球の運動についてー 第1集 158ページ
知、です。
チ。ー地球の運動についてー 第4集 26ページ
血、だ。
チ。ー地球の運動についてー 第4集 72ページ
セリフ短っ!
…すみませんセリフ短って言いたくて引用貼りました。
- 「地」は地動説
- 「知」は知性、理性、探究心や好奇心らへんを指し、世界を動かすために必要なもの
- 「血」は痛みや犠牲を指し、世界を今のまま保持するために必要なもの
と定義付けられています。ニュアンス間違っていたらごめんなさい。
「地」はこの作品の主題なので置いておいて、
「知」と「血」は、世界を動かすもの、世界を今のまま保持するものとして、対立構造をとっていることが分かります。
「血」が弱まり「知」が解き放たれた?
チ。におけるアルベルト編より前の世界では、「知」よりも「血」が優位な世界として描かれています。
「知」は抑圧され、「地」と「知」を持ち合わせた人は、全員死にました。
ポトツキさんは唯一「地」と「知」を自ら捨てることにより生き延びましたね。
ノヴァクの死は、チ。というストーリーにおいて、ハッピーエンドを迎えるための重要な要素ですが、同時に「血」の勢力が弱まり「知」が優位に立った世界に変わったことを表現しているのではないかと考えられます。
実際は徐々に「血」の勢力は弱まっていたんですが、「血」の象徴であり「地」に対する最も強力な「血」であるノヴァクが死ぬことにより、時代が変わったこと明示的に表現していたと考えられます。
あと、なんかアントニ司祭も地味に死にましたね。
こちらはどちらかというとストーリー上の都合でしょうかw
ラファウが登場した理由
じゃあ結局、なぜラファウがアルベルトの先生として登場したのか。
“15世紀の人”であるレフ、ドゥラカは敢えて間接的にアルベルトと接触させてのに、なぜラファウ先生はアルベルトに直接接触させたのか。
私は、この疑問で3日間は「?」でした。
普通に考えて、アルベルトの父親を殺す存在はラファウじゃなくてもいいはずなんですよね。
ラファウを使ったらラファウ生きてた説とかいうクソ説が出てきちゃう訳で、マンガを読みにくくする上に謎考察をされるリスクをとってまでラファウにこの役割をやらせた理由はなんなんだろうと。
行き過ぎた「知」は「血」を招く?
長々と書いてしまいましたが、ラファウをアルベルトの先生として再度登場させた理由は、半分創作、半分史実の世界で、「血」を表現し言及したかったからなんじゃないかと考えました。
再度登場したラファウは、「地」と「知」だけでなく、「血」の属性を持っていました。
しかし、ラファウが持つ「血」は、以前までの「血」とは別のものでした。
ノヴァクの「血」は世界の現状維持のための「血」でしたが、ラファウのは「知」を重視するあまり起こった「血」でした。
つまり、これまでのストーリーでの主張を強調する意図ではない、別の意図があると捉えるべきであり、これまでの主張を補完する目的である可能性が高いと考えられます。
そのためラファウを使って言いたかったことは
- 「知」を信じすぎるのも危険かも
- 平和な世界ってのは不安定なもんだよ
- 「血」がない世界にしたいね
みたいな感じなんじゃないかなと。
“21世紀の人”(あとがき)
上記を踏まえ「チ。」という作品は、現代や今後の未来について、我々”21世紀の人”がどのように歴史を作っていくべきかについて言及していて、我々が何に気をつけるべきかを教えてくれているんじゃないかと私は思いました。
壮大ですね。
我々現代を生きる人の中にも史実に名を残す人、”21世紀の人”として名前は残さずとも後世に影響を与える人がいる訳で、名前を残さない人の影響力が無視できないことはこの作品を読んだ人誰もが痛感していると思います。
チ。の世界では平和に終わりましたが、15世紀以降の史実として、
ジョルダーノ=ブルーノが処刑され、
ガリレオ・ガリレイが有罪になり言論の自由を奪われる歴史が確定しています。
これを21世紀を生きる我々に当てはめた場合、どのような結論が見えてくるのでしょうか?
こじらでした
じゃ